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まるで海外で初めて味わう食べ物のよう「ブレイキングバッド」・感想2

本日は「ブレイキングバッド Breaking Bad」のネタバレ感想と考察を少々。

このドラマがわたしに引き起こした「混乱」とは?

なぜその「混乱」がとんでもない面白さを生むのか? というお話。

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「ブレイキングバッド」記事目次はこちらから

 


わたしは映像文化史についてまったく詳しくないので自分が見た範囲のことしか言えないのだが、いわゆる悪役の悲劇を魅力的に描くことについては少なくとも『ゴッドファーザー』の時点でアメリカではある程度確立されていたように思える。

わたしの印象に残った範囲での、日本における悪役の流行タイプの変遷といえば、90年代には「悪役にもそうなるだけの理由がある」という「勧善懲悪の否定」があった。

逆に00年代には理由のない悪、つまり「狂気」の描写がはやった。

文化史は常に流行とその反動の繰り返しである。

10年代はそこからまたさらに変化があって、「悪いことをしたい」という積極的な意志、言いかえると「悪意」の描写がはやっているように思う。

もちろんここに書いた年代は非常に雑な区分けで、実際には先鋭的な作品が流行の数年前に現れて、それを後追いする作品が流行を生んでいく。

 

さて、次の流行はどんなものだろうか?

ひょっとすると「ブレイキングバッド」におけるウォルター/ハイゼンベルク型は次の流行になりえるのではないだろうか?

 

ウォルター/ハイゼンベルク型悪役はわたしにとってあまりにも未体験のもので、それをどう受容すればいいのか処理しきれなかった。正直今も処理しきれていない。

平凡な男の二重性あるいは二重生活といってしまえば、テーマ自体は使い古されたものだ。

ただその重なり方が、わたしの頭が処理を拒否するくらいに重なり過ぎていた。

ウォルター/ハイゼンベルクは「どちらかになる」という類のキャラクターではない。

(確かに帽子をかぶっているときはハイゼンベルク側に大きく振れているが、あれは「ハイゼンベルクになろう」というウォルターとしての意思の現れと見ることもできる)

 

ウォルター/ハイゼンベルクには狂気もないし悪意もない

普通のパパの意識・感覚のまま凶悪な犯罪者になっていく。

彼の意識の連続性は役者さんの巧さもあってぞっとするほど。

もはや彼の性質を「二面性」という言葉で表すことはできない。

その「不可分性」こそがウォルター/ハイゼンベルクの特徴であり、キャラクターの魅力であり、このドラマの新しさであろう。

 

前回の感想でも書いたとおり、このドラマは悲劇と喜劇の重なり方が秀逸である。

それと同時にウォルターとハイゼンベルクの重なり方も奇跡的と言っていいレベルだ。

この二つが両立するのはある意味当然とも言える。

喜劇性を担うのがウォルターであり、悲劇性を担うのがハイゼンベルクである以上、そこが完璧に重なってできたドラマが両方の性質を兼ね備えるのは必然なのだ。

 

わたしははじめこの物語を、あるいはウォルター/ハイゼンベルクというキャラクターを、悲劇と見るべきか喜劇と見るべきかわからず、それがどうやら重なっているらしいと気づいてからは「今のパートは悲劇なのか喜劇なのか」と考えながら見るようになり、「そんなふうに分けられる重なり方ではない」と気づいたのはS4に入った頃だった。

この戸惑いこそがわたしの感じた「居心地の悪さ」であり、それがこのドラマの面白さなのである。

 

さて、彼は「ウォルター/ハイゼンベルク型」と呼べるような新しい流行を作れるだろうか?

ここまで書いておいて難だが、正直に言えば難しいだろうと思っている。

彼はテンプレにするには複雑すぎるのではないかというのがその理由だ。

ウォルター/ハイゼンベルクは、脚本と俳優ブライアン・クランストン、それに周囲を固めるキャラクターたちの力あってこその奇跡的なバランスで成り立っている。

「ブレイキングバッド」の成功により、似たような造形のキャラをつくろうとする人がいるかもしれない。ひょっとするともう既にあるかもしれない。

だがよほどの実力に運までが加わらなければ、既存の「平凡な男の二重性あるいは二重生活」タイプの内に収まってしまうように思える。

とはいえ、腕のいいライターがわたしの想像もつかないような方法でウォルター/ハイゼンベルクを抽象化し、まったく別の形でウォルター/ハイゼンベルク型キャラクターを再生産してくれる可能性がないとはいえない。

ひそかにそれを期待している。

 

さらに誤解されがちな点

ウォルターについてもう少し語らせてほしい。

わたしはドラマを見始めたとき、ウォルターのことを巻き込まれ型の主人公かと思っていた。

善良な人間が悪事に巻き込まれて事態が悪化していくのを見るドラマなのかな? と。

しかしこれはまったくの間違いだった。

ウォルターは最初から最後まで自らの意思で事態に飛び込んでいる。

もちろん大抵の場合、彼が見込んだ事態よりも悪いことが起こるのだが、それでも決めたのはウォルター自身だ。

 

同じようにわたしは初め、ウォルターのことを知的で冷静なキャラで、その点においてジェシーと対比されているのかと思った。

だが果たして本当にそうだろうか。

知能が高く、またある程度計算高いことは間違いない。

だが本当に知的で冷静なキャラであれば、家族のいる立場でメス作りなどに手を出すことはなく、こんな話はそもそも生まれないのだ。

「元化学教師」というラベルから少し距離をとってウォルターを見ると、彼の性質は「無鉄砲」「向こう見ず」「無計画」「現実を直視できない」「感情を暴走させがち」「我儘」「自分勝手」なものとして描かれており、少なくとも冷静さとは程遠いように感じる。

 

それからこの作品を「ウォルターの変化」を見るドラマと捉えるのも正確ではないように思えている。

ウォルターをとりまく事態・環境はどんどん悪化するのだが、ウォルター自身は変化しているだろうか?

第一話であっさりと殺人というハードルを乗り越えてしまう彼は、最初から、いや物語開始以前から「ハイゼンベルク」だった。

彼は青年時代から「無鉄砲」「向こう見ず」「無計画」「現実を直視できない」「感情を暴走させがち」「我儘」「自分勝手」な人間で、それを抑圧して生きてきたにすぎない。

グレッチェンの父親やエリオット絡みで殺人事件が起こらなかったのは、単にそのとき凶器となり得るものがなかっただけではないかと思えるくらいだ。

ただ、ウォルターの性質自体は変化しているとはいえないが、その発露の度合いは確かに変化している。

表情も使う言葉も乗る車も変わった。だがそれは彼の性質の変化を表すものではない。

「ブレイキングバッド」は「善良な人間が道を踏み外した」話ではなく、「才能を抑圧していた人間がそれを開花させた」話だ。

 

そんなわけで

この話にはとにかく「○○(既存のテンプレ的シナリオ、キャラ設定)だと思ったら××(テンプレからずらしてくる)だった」と気づかされることが多かった。

人は触れた情報に対して「寒い」「しょうゆ味」「ラベンダーの香り」「442Hz」などと常に言語的に分類しながら受容している。

ドラマに対しても「あのタイプの話か」と無意識のうちに分類しながら見ているはずだ。

ところがウォルター/ハイゼンベルクは、既存のフォルダに放り込もうとしたらエラーで弾かれることが多すぎた。まるで海外で初めて味わう食べ物のように、自分の中にある言語では分類不可能な味が出てきたときの混乱だ。

諸君、わたしはこの混乱が大好きだ。

この作品は私に大いに混乱をもたらしてくれた。

だから「ブレイキングバッド」は面白い。

 

 

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