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「聖典」の伝道師の愛が重すぎて最高「詳注版シャーロック・ホームズ全集」

このブログでは初めて書籍を取り上げることになるのだが、その記念すべき一冊目はこちら。

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ちくま版の『シャーロック・ホームズ』全集である。
「詳注版」とあるように、とにかく注が詳しいことが特徴だ。

 

 

こんな人におすすめ

  • というかマニアな人

あっ、シャーロキアンな方はもう既にこの手の本はお持ちだと思うのでこの記事は読む必要がありません。このブログ記事は「ホームズ」にちょっと興味があるくらいの人が対象です。

 

こんな人にはおすすめできない

 

わたしが手にとったきっかけ

シャーロック・ホームズ』は小学生の頃に一通り読んだがそれっきり。
BBC版「シャーロック」を見て、もう一度読みなおしたいと思い立った。
自宅からの最寄り図書館にある唯一の日本語版シャーロック・ホームズがこれだったのである。

 

ちなみに久々に『シャーロック・ホームズ』を手に取って感じたのは、”Rache” の文字を一目見てごく普通に「復讐」の意味で理解した自分への驚きだった。
小学生の頃は「レイチェル」のつづりすら知らず、ホームズが何を言っているのかまったくわからなかった。
ドイツ語を多少学んだ今、あのときに比べればずいぶん知識も増えたのだなと少し嬉しくなったものである。

 

どんな本なのか

まずこの本を手に取って最初に驚くのは、第一巻に『緋色の研究』が収録されていない点だ。
いったいどういうことなのかと前書きを読むと、この本はシャーロック・ホームズという人物の履歴書のようになっているのだという。
つまり実際に事件が発生した順で作品が並べられているのだ。
これだけでも、初心者が気軽に手に取るには若干のハードルである。

 

しかしこれはまだ序の口。
この書の真髄はその眩暈がするほどに詳しい注釈である。
本文は二段組になっており、上の段がサー・アーサー・コナン・ドイルによる作品(の日本語訳)、下の段はすべて注になっている。

 

その注の詳しさときたら、事件発生の年月日はもちろん(いくつかの説がある場合はすべて論拠とともに紹介)、作中に登場した人物は実際には実在するあの人だっただろうとか(やんごとない身分のお方が偽名で登場した事件で)、ここでこの人物の払った金額はこれくらいの価値だとか、ここでホームズがこんな行動をとったのは当時のイギリスにこんな法律があったからだとか、A地点からB地点まではこれくらい離れているのだからこれだけの時間で移動しているのはおかしいといった矛盾の指摘とか、ドクター・ワトソンは何回結婚したのかとか(これも諸説あるので全部紹介)、もうとにかくすごい。

 

著者はシャーロキアンの書いた代表的な論文はほとんど押さえていると思われる。あちこちから引用しながら、自説も披露しつつ「聖典」のさまざまな解釈方法を提供してくれるのだ。

 

そう……「聖典」である。
本書において『シャーロック・ホームズ』原作のことは「聖典」と呼ばれている。
ライト層お断り感満載だ。

 

そして本書において、サー・アーサー・コナン・ドイルはただのワトソンの一知り合いに過ぎない。「聖典」の著者はあくまでドクター・ワトソンであり、ドイルとかいう人は「聖典」にろくにかかわっていない(という立場で書かれている)からだ。
だから「聖典」に矛盾があった場合、著者は「ワトソンの覚え違いであろう」とか「ワトソンがわざと事実を隠して書いた」などと解釈する。
いかにライト層お断りか、少しは伝わっただろうか。

 

もちろん著者は初見の読者など想定していない。この本はどう軽めに見積もってもマニア向けである。
その証拠に、上段に事件発生直後の場面が展開されているときに、すぐ下の注で事件の犯人について堂々とネタバレされていたりする。タイトルを見た瞬間に話の展開と犯人くらいはすぐに思いだせる人以外はお呼びでないのである。
初見の人におすすめできない理由は主にこれだ。
もし初見でこの本を手にしてしまった場合は、一周目は薄目で読んで注は見ないことだ。

 

さて、初見の人とライト層にはおすすめできないと散々書いたが、はっきり言ってどう考えてもわたしこそがライト層である。ライト層は本書をどう楽しめばいいかをここに添えておく。
わたしはこの本を、基本的には上段だけ読み進めた。気になるところに注がついている場合は、そこだけ拾い読みするという形だ。これだけでも十分面白いし、当時の資料をまとめて眺められるのも興味深い。
本書はモノクロ印刷ではあるが、ヴィクトリア時代の「聖典」の挿絵も多く挿入されており、当時の建物や衣装、小物、貨幣などの写真資料も豊富だ。
そういう資料を眺めながら本文を読んでいくと、情景やドイルの意図したところをありありと想像できてかなり楽しい。
そういう読書体験をしてみたい人にはおすすめだ。
何より、著者のホームズへの迸る愛と情熱が如実に伝わってくるのが最高だ(愛が重すぎて文庫なのに本自体もかなり重いが)。

 

わたしの場合「これしかなかった」からこの本を手にしたのだが、逆に『シャーロック・ホームズ』に詳しくなりたい人の場合、これは良い入門書になると思われる。
この注釈が書かれた当時までの代表的な研究はほぼ網羅されているだろうから(そしてもちろん参考文献などはきちんと示されている)、この書を中心に興味のある分野の研究書や論文を読み進めていけば、シャーロキアンを名乗れる日も遠くないはずだ。