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バンクシーと新垣隆「EXIT THROUGH THE GIFT SHOP」感想

映画

話は2014年2月にさかのぼる。

その日わたしは、ニコニコ生放送新垣隆さんの記者会見を見ていた。

いわゆる「ゴーストライター問題」発覚の日である。

 

わたしにとって交響曲第一番「HIROSHIMA」はとても思い出深い曲だ。

わたしはあの曲が大好きだったし、今も大好きだ。

非常に強い「祈り」と「運命に対する勝利」への希求を感じる曲で、オーケストラ経験者なら「やってみたい」と思わずにはいられないだろう(※個人の感想です)作品だ。

 

ただしその「大好き」だという感情は楽曲に対して向けられていたもので、それを作った人にはそこまで興味が向かなかった。

もちろん楽曲の解釈にあたって、作曲家の人生や人生観をヒントにすることはある(これは音楽だけに限らず、文学でも美術でも映像作品でも同じことだ)。

しかしその作曲家に関する情報が間違っていたのであれば、その部分を修正したいとは感じる。

だからわたしは会見を見て、多少の驚きとともに「そうだったのかー」とむしろ納得し、自分の中にあった「HIROSHIMA」解釈を修正し、それでその話は終わった(どんな分野でも資料の研究が進むことで従来の定説がひっくりかえることなんて珍しくない。作曲家本人が生きているうちに自分で声をあげるのを、同時代人として見ることができるのは貴重な機会だな、とは思った)。

終わった、はずであった。

 

そこからのそのニュースへの世間の反応に、わたしは驚愕した。

「だまされた」という声の多さ。

「CD代金を返してほしい」などという寝言。

「もともと大した曲じゃないと思ってたんだ」などという後出しじゃんけん

何なの?

どうしてそんな反応が起こるの?

誰がその曲を作ったのかって、曲の評価にとってそんなに重要なことだった?

その曲が好きだったなら好きなままでいいじゃない。

CDを買ったら中身が入ってなかったという人が「だまされた」というのならわかる。

百歩譲って、曲を知らずにCDを買って、全然いい演奏ではないと思った人が「だまされた」というのも、まあ気持ちはわからなくもない。

でも、音楽を聴いて「いい」と感じた、その感覚自体を「だます」ことなんて、そんなことが可能だと思っているのだろうか?

 

Twitterで「佐村河内」「新垣」などのキーワードで検索を繰り返しながら、わたしはもやもやをためこんでいた。

そんなもやもやを、わたしは絵描きの友人に打ち明けた。

何を隠そう、このブログのヘッダを描いてもらったShioriさんである。

彼女はわたしの話をうんうんと聞き、「バンクシーの映画を見るといいと思うよ。sayuさん(仮)はそれを見るべきだよ」と言った。

それがこの映画との出会いである。

 

 

主人公は誰?

この映画はバンクシーの作である。

はるばるこの映画感想ページを見に来た人でバンクシーの名を知らない人などいるのかどうかわからないが、一応紹介しておくと、イギリス出身の覆面アーティストである。

バンクシー - Wikipedia

 

映画の内容は複雑怪奇なのだが、wikipediaに簡潔にまとめられていたので引用したい。

 

映像作家のティエリー・グエッタは覆面芸術家のバンクシーの存在を知り、彼に接近してドキュメンタリー映画を撮ろうとする。しかしバンクシーはティエリーには映像センスが無いことに気付き、逆に自分が監督して彼の映画を撮ることにする。

イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ - Wikipedia

 

こういうことである。

 

この作品の、物語の筋を握る「主人公」は「映像作家」ティエリーだ。

しかし彼のことを「映像作家」と呼ぶのは若干抵抗がある。

彼のもともとの本業は古着屋で、映像を撮るのは趣味だった。

趣味といってもかなり行き過ぎていて、文字通り起きてから寝るまでずっとカメラを抱えているという。

その彼がストリートアーティストたちと出会い、彼らの作品とその裏側に迫る映画を作ろうとするのだが、それを見たバンクシーは「terrible thing」だと感想を述べた。

つまりティエリーは「映像作家」として認められたことは一度もないのだ。

 

さて、物語は(この作品は「ドキュメンタリー」だがあえて「物語」と呼ぼう)ティエリーを中心に進んでいくのだが、視聴者の多くにとって、この作品の「主人公」はやはりバンクシーではないだろうか。

少なくともわたしはこの作品にバンクシーが出てくると聞いて期待した。

また作中ではバンクシーの作品やアトリエ、作品の制作過程なども登場する。

作品全体を支配しているのは、やはりバンクシーなのだ。

どこからが虚構でどこまでが現実なのか、視聴者には伝えられない。

バンクシーは物語の中心にいて、視聴者に見つめられながら逆に視聴者を見つめ返す。

 

そう、この作品のもう一人の「主人公」は視聴者だ。

この映画を見る人は、誰一人として傍観者になることはできない。

誰もがバンクシーに見つめ返される。

見つめられ、試され、手の上で弄ばれる。

一連の事件の「当事者」として、彼らと一続きの舞台に立たされていることに、視聴者は次第に気づいていくことになるのだ。

 

 

「みるもの」と「みられるもの」

この作品の面白さにはいくつかのポイントがあるが、一つ目にあげられるのがこれだ。

「みるもの」と「みられるもの」、「観察者」と「観察対象」がめまぐるしく入れ替わる構造は、ここ100年ほどの物理学界隈すら連想させる。

ティエリーは初め、「みるもの」だった。目に入るものを何でも撮影する傍若無人なカメラマン。それがストリートアーティストたちと出会うことで、興味がそちらへと集中していく。

ストリートアーティストたちは作品を「みられる」ことを望み、作品を目にした人たちの反応を「みて」楽しむ。

さらにティエリーはバンクシーの「アドバイス」によって、自らもアーティストとして活動を始める。「みるもの」だった彼が「みられる」側に立ったのだ。

 

この作品には、アートの受容者も多く登場する。ストリートアーティストに職務質問する警察官(彼らは最初の「受容者」だ)、作品を携帯電話で撮影する人、バンクシーの展示会を見に来る客、バンクシーの作品をオークションで落札する人、そしてミスター・ブレインウォッシュの展示会を見に来る客。

彼らは一様に、自分が「みるもの」の立場にあることを疑いもしない。同時に「みられるもの」でもあるだなんて考えていないのだ。しかしアートを一方的に「みる」ことなど不可能だ。アーティストは受容者の反応を「みて」いるし(反応など気にしないアーティストももちろんいるだろう)、アーティスト以外からも受容者の反応は「みられて」いる。それはティエリーのような人だったり、マスコミだったり、美術品の取引をする人だったり、ただの通行人だったりする。

そしてしばしば、アートとは「みられる」ことで完成するのだと言われる。作品を「みる」だけのつもりの受容者は、作品の一部であるというのである。「みる」だけなんて不可能なのだ。

この映画を見ていると、ミスター・ブレインウォッシュの展示会を絶賛する人たちは何ともマヌケに思える。しかしそれはそのまま、今まさにこの映画を鑑賞している自分自身もまた、彼らと同じ立場なのだということを意味している。

わたしたちは映画を「みる」ことによってバンクシーに「みられて」いる。試されている。

この構図を作り出すところまでがバンクシーの「アート」なのだ。

 

さてこのページを読んでいる人にはもうおわかりだろう。この話には続きがある。

「わたし」はこの映画を「みる」ことでバンクシーによって試され、現在この感想をつづっている。

そしてこの文章を公開すると同時に、わたしはブログの読者から「みられる」立場となる。

大した人数ではないが、それでもブログを読みに来る人は毎日絶えない。

そしてこの文章を読んだ人は、今度はわたしによって「みられる」こととなる(わたしもたまにはアクセス解析を覗くのだ)。同時にわたしによって試されることにもなる(この文章をどう読んだ? どう理解した? ……まあ、大したことは書いてないのだが)。

わたしが一つアクションすることによって、映画の構造も一段階拡大することになる。

一つの作品をつくるという行為には、こうした広がりも含まれる。それを改めて突き付けられた形だ。

 

 

アートに「だまされる」人々

ここまで、誰だってアートを(「アート」に限らず何でも)一方的に「みる」ことなどできない、ということを確認した。

では、ミスター・ブレインウォッシュ(=ティエリー)の作品に心を動かされた人は、ティエリーに「だまされた」のだろうか?

 

わたしは、ミスター・ブレインウォッシュの作品も悪くないと思う。

ポップな色使いはわたしの好みだし、作品にはくすっと笑わせてくれるユーモアがある。

もし近くであんなアートの展示会があったら、わたしも見に行っていたかもしれない。

そしてカメラを向けられたら「刺激的で面白い」くらいは言ったかもしれない。

 

ティエリー自身に「だましている」という感覚はないだろう。

彼はバンクシーの「アドバイス」(あれは「君って映像作家としての才能はないよ」という遠まわしな忠告だったのだろうが)を言葉通りに受け取って、本気で自分自身を表現しようとしていた。

あの作品群はまさにティエリー自身だった。

「自分では何もしない」ところまで含めて、まさにティエリー自身を表現した作品だった。

だから、少なくともあの展示会の時点では、ティエリーは真剣に「アート」をしようとしていたのだと思う。

(ただし後述するように、ティエリーはアートのことを一種の「洗脳=ブレインウォッシュ」だと考えている。彼にとって「真剣にアートをする」とは「真剣に洗脳する」ことだったのだ)

 

だとすれば、彼の作品に心を動かされた人は「だまされた」とはいえない。

作品を見て刺激を受け取って、面白いと感じて、楽しい気持ちになったりして。

その気持ちは嘘ではないはずなのだ。

もし「だまされた」と感じたとするならば、その人は作品そのものではなくアーティストの肩書、そのプロフィールに心を動かされていたことになりはしまいか。

 

同じことを、わたしは佐村河内への世間の反応を見ていて感じた。

あの曲に心を動かされたり、勇気をもらったりした人は少なからずいたはずだ。

それは音楽が素晴らしかったからではなかったのか?

あの曲を聴いて素晴らしいと思った、自分の耳をそんなに信用できないのだろうか?

いったい彼らは何を「聴いて」いたのだろうか?

 

たとえば佐村河内の耳が聞こえるとか聞こえないとか、そういうことが話題になった。

そんなこと、楽曲の評価に関係あるだろうか?

もちろん本当に聞こえないのだとすれば本人にとっては大問題だし、もしその状態で作曲していたとしたら非常に難しかっただろう。

しかし「だから」そうやってできた曲は素晴らしい、なんて誰が考えるのだろう。

(いや、そう考えた人がどうやら多かったらしいのだが)

ベートーヴェンの曲が素晴らしいのは、彼の耳が聞こえなかったからだろうか?

そんなわけない

彼の曲はそんなこととは関係なく素晴らしいのだ。

 

……ということくらいは、音楽をやっている人なら誰だって思っていたはずだ。

そしてそう思ったうちの何人かは、わたしと同じことをしたのではないだろうか。

すなわち、「佐村河内」や「新垣」で検索して、さまざまな人の勝手な意見・感想を読みあさることだ。

わたしは大体一週間分くらいは読んだ。膨大な量だった。

これはまさに、ミスター・ブレインウォッシュの展示会に来た人を観察するのと同じ行為だ。

「だまされた」と呟くとき、その人は自分がニュースを「みる」側に立っていることを疑っていない。

「みられて」いること、その呟きによって自分が試されていることを少しも想定していない。

ちょっとだけ、愉快な気持ちだった。

今わたしは、さらにその構図を裏返そうとしている。

 

 

アートは「洗脳」

ミスター・ブレインウォッシュ。その名の由来はもちろん brainwash、すなわち洗脳である。

ティエリー自身が、アートとは一種の洗脳なのだと語っている。

この言葉はいろいろな解釈が可能だ。

わたしは、アートとは価値を提供するものなのだという意味で理解した。

つまり、ただの紙に絵や文や楽譜を書けば、それは立派な「作品」となる。「ただの紙」に高い価値がつく。ねじまがった電話ボックスが高値でやりとりされる。

ある意味で、アーティストのすることは「価値の押し売り」だ。「ただの紙」に価値があると思わせること。より抽象的に言えば、「何か」に「意味」を与える行為だ。

「意味」が与えられることにより、「沈黙」「無音」すらも「音楽」になる。

 

わたしには佐村河内の本当の意図はわからないが、彼のしたことも、少なくとも表面的にはミスター・ブレインウォッシュと同種のことではないかと思える。

つまり作曲した当人である新垣本人は「どうせ売れるわけはない」と思っていたあの重く長いシンフォニーに「付加価値」をつけた。

一つは「全聾の作曲家」というキャラクター。

もう一つが「HIROSHIMA」というタイトル。

特に後者は非常に大きな付加価値だった。

わたしだって最初にこの曲を聴いたとき、そのタイトルと無関係に聴くことはできなかった。まさかこのタイトルも後付けだったとは。その点は驚いたし、楽曲の理解を大幅に修正しなければならなくなった。

わたしは、佐村河内のなした「アート」はこの二点だと思う。

つまり、ティエリーの定義によれば彼は正しく「アーティスト」なのだ。

佐村河内は見事に人々に「価値を提供」した。

 

 

新垣隆新作交響曲

今回わたしが2年ぶりにこの映画のDVDを引っ張り出してきてこの記事を書いたのは、新垣隆が新作交響曲を発表するからである。

CONCERT | 新垣隆オフィシャルサイト | 応援団サイト

 

佐村河内側も映画を撮られたというが、正直なところあまり興味はない。それはもうバンクシーがこの映画でやったことだよね、と思っている。

 

この「ゴーストライター問題」と、それからこの映画を通していろいろなことを考えた。

・「一過性」のものを「芸術」と呼べるか?
・「芸術」とは普遍性を帯びるべきか?
・「芸術」は「受容者」を必要とするか?
・何をもって「受容」といえるのか?
・「真善美」の概念は「芸術」にとって必要か?

どれも難しい問題で、一朝一夕に答えが出せるものではない。

だがこういった問題と向き合うことで、自分が漠然と「良い」と思っていたものはなぜ「良い」のか、なぜ「良い」と感じるのか、考えるきっかけになった。

それはこのブログを始める動機の一つでもあった。

 

なぜ面白いのか。

なぜ良いのか。

なぜ美しいのか。

 

バンクシーよろしくこの問いを読者に投げかけて、本日のお話はこれにておしまい。

 

ssayu.hatenablog.com