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なぜ面白いのか

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バンクシーと新垣隆「EXIT THROUGH THE GIFT SHOP」感想2

映画

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前回までのあらすじ】

新垣隆新作交響曲発表ときいて、バンクシー監督の映画を引っ張り出してきた。

 

前回の記事を書いてから、「芸術」と「芸術家」とその「受容者」についてもう少しいろいろ考えてみた。

この映画を見ることでわたしの中の三者の関係のイメージが少し変化したので、今日はそのあたりについて書いてみたい。

 

 

「芸術」とは普遍性を帯びるべきか?

前回の記事の最後でいくつか発した問いの一つがこれだ。

わたしはこれまで、芸術とはある程度普遍性を帯びるべきものだと考えていた。

少なくとも19世紀初頭に、現在のような味での「芸術」という概念が誕生して以降の芸術家のなかには、「真の芸術」だとか「全人類のための作品」だとかを意識した人が少なくない。

 

19世紀に作られた作品のうち現代でも鑑賞し続けられているものは、やはりある程度「普遍的」な良さがあるのではないかと思う。

つまり時代や場所、性別や人種、宗教や思想などを飛び越えて「いい!」と思わせる力がある。

そしてその作り手のなかには、100年、200年たっても鑑賞に堪えうる作品をつくろうと意識していた者も実際にいるだろう。

この点が近代以降のいわゆる「芸術」(あるいは今使われている意味での「アート」)とそれ以前とを分けているように思う。

 

たとえばパレストリーナであれバッハであれ、19世紀より前の「作曲家」の意識は「芸術家」というよりは「職人」であったり「宗教家」であったりしただろう。

作品は特定の目的(行事で演奏するなど)のためか、あるいは注文を受けてつくられるものであって、現代的な意味での「芸術」のためなどではなかった。

彼らが想定していた作品の受容者はせいぜい数十人から数千人程度だろうし、ましてや数百年後にまで自分の作品が演奏されているなど考えていなかっただろう。

「たまたま」彼らの作品に時代を飛び越える力を持つ美しさがあったから、「結果として」彼らは現代でも知られる「音楽家」あるいは「芸術家」とみなされている。

 

わたしがこれまで親しんできた「芸術」とは主として演奏会で演奏されるクラシック音楽、あるいは美術館に展示される美術品で、こういった意味での「普遍性」を持つものだった。だから漠然と「芸術作品には普遍的な良さがあるものだ」と考えていた。

 

が、「EXIT THROUGH THE GIFT SHOP」を見てその考えが揺らいだ。

バンクシーらストリートアーティストにとって、時代や場所を飛び越えるという意味での「普遍性」など取るに足りないもののようだった。

一晩たったら消えてしまっていてもいい。

たくさんの人の目にとまらなくてもいい。

一時的に町の風景を少しだけ変えること、自分の作品の前を人が通っていくこと、ひょっとしたらその作品を見た人の心に何らかの影響を与えているかもしれないこと、その全体をひっくるめて「アート」とする。

そういう「アート」のあり方も、わたしはアリだと思った。

 

一過性のものでも、100年後の鑑賞どころか明日にはなくなっていても、鑑賞したのが数十人だったとしても、そのことがその作品を「アートではない」と断ずる理由にはならない。

むしろ「なくなってしまう」というところまで含めてアートだと考えてもいいのかもしれない。

たとえば壁に描かれたあのネズミが塗りつぶされてしまったら、あのネズミを知る人の心には何らかの波紋が浮きたつだろう。それだって「アート」とは言えまいか。

ベルリンのイーストサイドギャラリーは現在まで保存されているが、たとえあの壁がすぐに壊されてしまったとしても、そこでの行為が「アート」だったことには変わりがないと思うのだ(ちなみにイーストサイドギャラリーを見に行ったのはこの映画を見たあとだった。もし見る前にここを訪れていたらどう感じただろうか? ひょっとしたら訪れようとも思わなかったかもしれない)。

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芸術は「受容者」を必要とするか?

これは「芸術は社会的行為か?」と言い換えてもいい。

現在のわたしとしては、基本的には「そのとおりだ」と思っている。

作品は人の目に触れることで「完成」する

 

ただしこの「受容」とは、相当幅広いものと考えた方がいいのかもしれない。

つまり「芸術作品として評価される」ことだけが「受容」ではない、という考えである。

ストリートアートのように「町の一部にそれが存在しているという状態」をもって「受容」としてもいいのではないか(音楽ではストリートミュージシャンがそれにあたるだろうか)。

作品が視界に入ること、作品のある風景の中を人が通ること、それをもって作品は「受容」され、「完成」するのだ。

 

そんなことをぶつぶつ話していたら、またしてもShioriさんから「戸來貴規 日記」で検索してみて、と言われた。

彼の「日記」を開いて、わたしは文字通りぞくっとした。

明らかに意図を持って描かれた、あまりにも意味不明なメッセージ。

最初の印象はこうだった。

 

これを「アート」だと感じる人は少なからずいるだろう。

またこれは「アート」ではないと感じる人もいるだろう。

この作者は「芸術家」かと問われれば、さらに意見は分かれるだろう。

ともかくこの作品は「施設の職員によって発見される」ことで日の目をみることになった。

これは「受容者」が現れた時点で「アート」が完成するという極端な例だ。観測者の存在によって初めて現象が成立するというやつだ。

 

この「日記」、美術館で、あるいはこのようなサイトで紹介されていれば「アートだ!」と感じる人は多いだろう。

しかしもしも無造作に紙束が置かれただけだったとしたら、同じように感じる人は減るのではないだろうか。

作品の「見せ方」は、ミスター・ブレインウォッシュの言うように一種の「洗脳」である。

 

ここで話をもとにもどして、交響曲第一番「HIROSHIMA」である。

あのときわたしたちは「何を」聴いていたのだろうか。

わたしはあの曲が好きだったし、今もとても好きだ。

でもあのとき、わたしは(「佐村河内」の)「HIROSHIMA」という曲を聴いていた。曲を通して「HIROSHIMA」を見ていた。

完全に、正しく「洗脳」されていた。

 

では、今は?

今は今で、曲を通してあの頃の思い出を見ている。

「HIROSHIMA」に触れていたときのこと、それから記者会見後の騒動のこと。

現代人は芸術作品を「物語」でとらえがちだ。

それは現代人にかけられた「呪い」と言ってもいい。

(作品を「物語」でとらえるという行為自体が近代的なものだが、そっちに話がいくと帰ってこられないのでやめておく)

作品「そのもの」を見るなんてほとんど不可能に近いのではないかと思ってしまう。

現代人にとって芸術が「社会的行為」である以上、もうそれは仕方がないのかもしれない。

 

なんだか話がぐだぐだになってきたが、現段階でのわたしの暫定的な結論はこんなところである。

暫定的でもなんでも結論を言語化しておけば、自分の中で更新が発生したときに気づきやすい。

そもそもそれを目的にブログをしているわけだから、もうこれで公開してしまおうと思う。