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わがままなファンのわがままな希望「ダンガンロンパ3」感想

視聴は無理かとあきらめかけていた「ダンガンロンパ3」がhuluに来ていた!

喜び勇んで見始めたわけだが、少々まずかったことに途中で気がついた。

このアニメ、未来編と絶望編を交互に見ていくのが前提で作られている。

ところがわたしはhuluによる自動再生に従って、未来編を配信分全部見てから絶望編に取り掛かった。そこでやっと「交互に見るべきってこういうことか!」と理解したのである。

今後の配信分は一週分ずつ順番に見ていくことにしよう。

 

完結していない物語に対して感想を述べるのは少々危険だが、ひとまず現在見たところ(未来編6話、絶望編5話)までの感想を書いてみたい。

なおわたしは「ダンガンロンパ」1、2、「絶対絶望少女」はプレイ済み、『ダンガンロンパゼロ』と『ダンガンロンパ霧切』は読了している。アニメのネタバレというより旧作のネタバレに注意。

 

 

ダンガンロンパとの出会い

 

感想を書く前に、わたしとダンガンロンパシリーズとの出会いについて触れておきたい。

わたしにとってダンガンロンパは記念碑的作品と言ってよい。

一時期ゲームというものから卒業しかけていたわたしを、こっちの世界にどっぷり引きずり戻したのがこの作品だ。それくらいこのゲームは面白かったし、当時のわたしにとって非常に「新しい」ものに感じられた。

 

それ以前のわたしにとって「ゲーム」と言えばほぼRPGを意味した。いわゆる「アドベンチャーゲーム」というジャンルを手に取るのはほとんど初めてだった。

そういうわけでダンガンロンパ以後、わたしはこのジャンルの代表といわれるゲームに次々と手を出した。

逆転裁判、428、シュタインズゲートなどなど。

どれも素晴らしい作品だった。これらの作品に触れるきっかけとなったダンガンロンパがどれほどわたしにとって意義深いか、このことからだけでもわかるだろう。

 

さらにわたしはこれだけ面白いものを知らずにいたということに衝撃を受け、まだ手を出したことのない未知のジャンルには未知の面白さがあるのではないかと考えた。こうして、それまで敬遠していたアクションを求められるゲーム(わたしは基本的にどんくさいのでアクションは苦手である)にも手を出し始めた。

モンハン、GE、討鬼伝はどれも面白かったし、FF零式などのアクションRPGも楽しめた。

少なくとも、なぜこのジャンルが一つの流行を作り出すことに成功したのか実感できる程度には楽しんだ。

またゴーストトリックの主人公はわたしの知る中で最高にかっこいいキャラだったし、lifelineのようなゲームブックアプリも新しい体験をさせてくれるものだった。

 

つまりわたしにとってダンガンロンパは、失いかけていたゲームへの情熱に再点火してくれただけでなく、未知のジャンルに手を出すきっかけまで与えてくれた。

わたしが海外ドラマに手を出すきっかけの一つがこの流れにあった。

つまりわたしは「面白くて刺激的なシナリオ」を渇望するようになったのだ。

ゲームのシナリオに慣れたわたしには、映画の長さというのはどうにも短く感じられた。もちろん2時間の尺でも十分に楽しませてくれる映画は多い。しかし10時間かけられるドラマなら。あるいは50時間かけられるドラマなら。その可能性に気づいたとき、ドラマに手を出さずにはいられなかった。

(もう一つの海外ドラマに手を出すきっかけとなったものは、もちろんTop Gearである。あの番組のゲスト出演者に興味を持ったところから映画を見るようになり、そしてドラマにも手を出すことになった。Top Gearとダンガンロンパという二つの流れが合流した地点にあったのが海外ドラマというわけだ)

 

というわけで、ダンガンロンパに出会っていなければこのブログだって存在していない。

それくらいわたしには重要な作品である。

……という前提で、以下を読んでほしい。

 

「悪意」の表現

わたしがダンガンロンパをプレイしたとき、何に身震いしたか、何に対して「新しさ」を感じたかといえば、それは「悪意」の表現だった。

00年代の悪役といえば、「狂気」の表現は溢れていた。また「天才」の表現もかなり突き詰められたところまでいっていた。

90年代から大流行した「悪役にもそうするだけの理由がある」というシナリオも、まだまだ根強く存在した。

そこに現れた悪役の持つ新しい概念が「悪意」である。

「それが悪いことだとよく理解したうえで、悪いことをしようと思った」という悪役の姿勢は、当時かなり新しかったのではないか。少なくともわたしには非常に斬新に感じられた。

 

この作品に存在する「悪意」とは、「悪役の悪意」だけではない。

物語の主人公を飛び越えて、物語を眺める立場にいるはずのプレイヤーに直接ダメージを与えようとする、「製作者の悪意」も含む。むしろこちらの方が大きいくらいだ。

このゲームの製作者は、どうやったらプレイヤーにダメージを与えられるかということを徹底的に考えている。

ダンガンロンパというゲームにおいて、プレイヤーが無傷ですむなどということはありえない。

そして大いに傷つき、絶望し、その末につかんだエンディングに希望を見出すことこそが、このゲームの最善の「楽しみ方」であるともいえる。

この製作者の姿勢、そしてゲームデザインもまた、当時のわたしには「新しく」感じられた。

それこそゲームそのものへの「希望」を取り戻すことができるくらいに。

 

アニメ製作者の姿勢

それを踏まえて現在放映中のアニメを見ると、だ。

やはりあのゲームを作った人たちの思想がかなり反映されているのは伝わってくる。

少なくとも、作り手が登場人物を飛び越えて視聴者を絶望させようとしているのはひしひしと感じられる。

また「ダンガンロンパ」1、2と「絶対絶望少女」が「ゲーム」という媒体であることを最大限に活かした物語作りだったことを踏まえても、今回のアニメが「アニメ」という媒体で作られた意味を入れてくるに違いない。メタ的なことを言えば、そうでなければ3をゲームではなくあえてアニメで製作した意味がない。

正直に言うと、わたしは3のシナリオをゲームで体験したかった。そういうファンはきっと少なくないはずだ。だがそこをあえてアニメでやろうというのだから、きっとそこに何か、そういうファンをもねじ伏せるほどの仕掛けがあるのだろう。というかあってほしい。

視聴者の大半は、「ダンガンロンパ2」が「ゲーム」だったというオチを知っている(だからこそ2はアニメ化されないのだろう)。だから、たとえば3は「アニメの世界」だという予想をする人は少なくないはずだ。そしてそういう予想をする人は少なくないだろうと、きっと製作者は予想している。「絶望編」の冒頭で、この物語が客観視されるべき「被造物」であることが示唆されたが、それはこの予想の存在と無関係ではあるまい。

 

ただ、本当に3がアニメの世界だった場合、あるいは何かしら世界観にかかわるネタばらしが物語のどこかで行われた場合、それを踏まえた最終回はどのようなものになるのだろうか。

これまで1と2はともに希望で終わる物語だった。「3」もきっとそこは踏襲してくると思われる。

しかしどうやって話を希望へ持っていくのかが問題だ。

 

ストレートに言うと、盾子ちゃんはまた出てくるのか? という話だ。

ダンガンロンパという物語において、江ノ島盾子という存在はあまりにも大きい。シリーズを重ねても、彼女を超えるラスボスは生まれていない(江ノ島のあとに狛枝というキャラクターを造形しえたことについては、称賛するしかないが)。

きっと今回も何らかの形で登場するのだろう。そのための伏線は絶対絶望少女の中に存在していたし。

 

ラスボスがモナカではだめだというのが現時点でのわたしの印象だ。あの子は江ノ島盾子の思想を理解しているが、江ノ島以上の存在にはなれない。そこが絶対絶望少女の残念だったところだ(ただし狛枝がモナカの成長を助けて二代目江ノ島盾子としたのなら、もしかしたら江ノ島とは違う方向性を持つ「絶望」に育った可能性もある)。

ついでに、現時点でかませメガネが「黒幕はモナカ」と言っていることからも、彼女はラスボスではないのだろうと思わせる。

 

それでは誰が? というか「何」がラスボスたりえるのだろうか?

ファンは確かに江ノ島盾子を求めている。彼女と苗木の決着を再び見たいと思っている。

しかし同時に、江ノ島盾子を超えるラスボスをも求めている。

きっとそのことを、製作者はわかっているはずなのだ。

一見相反する両者を両立させる道を、きっと模索しているはずなのだ。

そうでなければファンは納得しないし、そうでなければ、あれだけきれいにおさめたダンガンロンパ2の続編など作ってはいけないのだ。

 

そういう意味で、わたしは期待と不安の両方を抱えてアニメを見ている。

裏切られたいけど裏切られたくない。

ファンとはそうしたわがままなものである。

 

これがゲームであれば、もうそろそろ睡眠時間を削ってでも続きが気になってプレイしてしまうくらいの段階である(1のときも2のときも、最後の二章分くらいは睡眠時間を削ってプレイしたものだ)。

しかし3はアニメ。

どうしたって次の話までは一週間待たなければならない。

その分考察ができる。

反芻できる。

世間から数日遅れではあるが、こうやって待つことも製作者の意図したことであろうと考えて、できるだけネタバレを見ずに残り半分を楽しみたい。