なぜ面白いのか

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主観と客観と面白さ「ニュースルーム」感想02

昨日に引き続き「ニュースルーム」の感想、というか「ニュースルーム」を見ていて、普段考えていることをここに書きたくなった。

 

カメラには主観が入る

「カメラは嘘をつかない」という言葉を聞いたことがないだろうか。今ぐぐってみたところ755,000 件ヒットし、しかもそういうタイトルの曲まであった。

わたしもかつては当たり前のようにそう思っていた。カメラは出来事をありのままにとらえるもので、そこに主観やごまかしの入る余地はないと。

だがどうやらそんなことはないらしいと気づいたのは、「トップギア」の「GT-Rと新幹線」回を見たときだ。あそこに映っていた日本、つまりBBCのカメラマンの撮る日本は、わたしの知る日本とは違っていた。

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イギリス人には日本がこんなにも「不思議の国」に見えるのかと、わたしはそのとき初めて認識した。

イギリスの料理人ナイジェル・スレーターが来日したときに撮った写真も「不思議の国」日本という主観が満載で、とても面白い。

 

なんとなく言いたいことが伝わっただろうか。わたしたちは普段、自分の住む世界をこんなふうに見ていないと思うのだ。

「カメラは嘘をつく」とまで言ったら言い過ぎかもしれない。だが写真や映像は決して客観的であるとは言えない。カメラを持つ者の主観は大いに入りうる。

ドラマやドキュメンタリーの内容だけではなくその撮り方や画面の構図、光の当て方やフィルターの色などに注意して映像作品を見るようになったのは、それに気づいてからだった。

そういえば「ニュースルーム」はオフィスのシーンでブルー(と黄色?)のフィルターを使っているように見える。テーマとなる話題が重い分、画面は明るく爽やかな印象だ。建物の外に出るときは大抵夜なので、余計に明るいオフィスが際立っている。

 

話題のチョイスにも主観が入る

これについては説明も不要だろう。

たとえば「昨日は何をしたの?」と尋ねられて、朝から夜までの逐一を説明する人はいまい。昨日の出来事の中から何かしらの基準を持って話題を選ぶのが普通だ。その際、相手に知られたくないことがあればその話題は避けるだろうし、相手との関係性によってどんな話題をチョイスするかは変わるだろう。

本当のことしか言っていなかったとしても、そこには選択があり、選別があり、主観が入る。

このブログに書くことだってわたしは選別している。あるドラマを見て感じたことを本当にすべて書こうと思ったら、とても数千字では足りない。ひとつのエントリが数万字になり、月に一度くらいしか更新できない。だから特に残しておきたいと感じることだけ選んで書いている。

さらに言えば、このブログはわたしが「面白い」と感じたことしか話題にしないというルールがある。残すまでもないと感じたものはそもそも話題にあがらない。

 

「公平性」とか「客観性」とか

よく言われることではあるが、「嘘ではない」からといって、必ずしも正しく公平な報告であるとは限らない。ドラマの話題に戻すと、ニュース番組だって「公平」ではありえないのだ。

ただし「ニュースルーム」において、「公平」であることはむしろ問題にならない。彼らが問題にするのは「話題の選び方」、「提供する順番」などである。

議論にあたって「両方の立場」を紹介することについても、「立場が二つしかないと思わせる危険性」を指摘していた。実際は三つの立場があるかもしれないし、五つかもしれないのに、「両者」を紹介することで問題を単純化する危険性があるというのだ。これは非常に重要な指摘だ。「公平さ」を目指すことの危険性を示している。

 

わたしの立場を表明しておくと、「公平性」も「客観性」も嫌いな言葉のワースト5に入る。そんな言葉を掲げているものは、それだけでうさんくさく感じる。

わたしが「ニュースルーム」のキャラクターを好ましく思うのは、「何を伝えるかは自分たちが決める」「選挙にとって重要かどうかで話題を選別する」という姿勢を徹底しているところだ。自分たちが選別する立場であることをはっきり自覚していて、その基準も自分たちで決めている。

さらにウィルという天才アンカーを通じて「言葉」が発せられるとき、そこにあるのはただの情報ではない。ウィルの主観であり、彼の世界観だ。だからこそ彼のニュースは面白い。

 

話が飛ぶが、わたしが「トップギア」を好きなのは、そこに一切の公平性も客観性も感じられないからだ。彼らは徹底して自分の主観に基づいて車の良し悪しを語り、互いの意見が衝突しても譲らない。

だがそのことの、なんと難しいことか。確固たるアイデンティティと世界観が確立していなければ不可能だ。

ウィルのニュースは「トップギア」のような「エンターテイメント」ではないが、基本姿勢には近いものがあると感じる。質のいい「ショー」を作るという意思と、何をもって「質がいい」とするかは自分が決めるという自信。視聴者はそこを面白く感じるのだ。

 

わたしにとっての「面白さ」の基準の一つはここにあるのかもしれない。

つまり、作品から見えてくる作り手の主観こそが面白い。

だからナイジェルの日本旅行写真はいつまでも眺めていられるし、「トップギア」も「ニュースルーム」も面白い。

よく考えてみると、わたしはこのブログの「はじめに」で

このブログでは極力客観性を排し、わたし個人の主観的な感想のみを書きたい。

と書いていた。これを徹底した結果、「トップギア」と「ゲームオブスローンズ」両方のファンでなければ理解できない記事や、「トップギア」と「クリミナルマインド」両方のファンでなければ理解できない記事を書いたうえ、この記事も前の記事も「トップギア」と「ニュースルーム」両方のファンでなければ理解できないものになってしまっている。どこに需要があるのかまったく不明だが、「はじめに」で宣言したとおりこのブログは第一にわたしのために存在しており、わたしにしか書けないわたしの主観的な感想を書くことを目的にしているのだから、これがあるべき姿である。

いったいどこに着地させればいいのかわからなくなってきたが、このへんで終了しようと思う。少なくともわたしの感じる面白さの基準が一つ明らかになったわけで、わたしにとってブログを始めた成果があったといえる。よきかな。

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