なぜ面白いのか

見たもの触れたものを保存しておく場所。映画、ドラマ、ゲーム、書籍の感想や考察。

ヒーローの皮をかぶったアンチヒーロー「ゲームオブスローンズ」8-5考察

f:id:ssayu:20190516224244j:plain

http://www.makinggameofthrones.com/production-diary/season-8-episode-4-costumes-daenerys-cersei

前の記事をあげてから急にいろいろな方がブログにコメントをくださり、またわたしもあちこちで5話の感想を読んで、さらにいろいろ考えてみた。

うん、またデナーリスの話なんだ、すまない。

でも今わたしの中でかつてないほど彼女の好感度が急上昇していて(まあ今までが最低だったからなのだが)、まだほかのことが考えられないのだ。

自分の中でしっかり消化できたら、ほかのことも考えられるようになるのだろうが、その前に「ゲームオブスローンズ」が終わりそうである。つらい。

最終回まで残された時間はわずか。それまでに考えられることはできるだけ出しきっておきたい。ではいってみよう!

今日初めてこのブログにいらっしゃった方は、できれば

きっと知っていたサンサ「ゲームオブスローンズ」8-5感想 - なぜ面白いのか

「運命」という行動理由「ゲームオブスローンズ」8-5感想 - なぜ面白いのか

ここ

という順番で読んでいただけると、話が飲み込みやすいはず。

以下、ネタバレするよ!

 

 

 

最終回でデナーリスがどんな最後を迎えるのかわからない状態でこれを書くのは危険だが、今でないと書けないことがきっとあるので残しておきたい。

ひとつ前の記事で、わたしは初めてデナーリスに感情移入できなかった旨を書いた。そうしたら結構いろいろな方が「自分も」とコメントをくれた。やはり同じように思っていた方は少なからずいたのだろうか。

で、いただいたコメントを拝読するうちに、わたしの中でやっと、デナーリスに抱えていた違和感を言語化できるようになった。やはり対話は意義深い。ありがとういんたーねっと。今日記事を書こうと思ったのは、そのへんを最終回前に残しておきたかったからだ。

 

アンチヒーローとしてのデナーリス

さて本題。

「ヒーローとは何か」という問いは、もうここ50年くらい世界のさまざまな界隈、文脈で議論されてきた(もちろん古典古代からそういう議論はあったのだが、そっちに足を踏み入れると帰ってこられないので2000年分くらいはしょるよ!)。

現代のエンタメ界に直接影響が大きい議論は、ベトナム戦争へのカウンターで生まれたアイアンマンあたりからのものだろうか。アメコミについてはMCU作品を追っているくらいで深く語れるほどではないのだが、ともかくアメコミ界隈が「現代におけるヒーロー像」を模索してきたこと、さまざまなアプローチで新しいヒーロー像を生み出してきたことは間違いない。

 

デナーリスのキャラクター像は、そういった文脈をふまえた上で、ある種のアンチヒーロー的な存在として生まれたように思える(少なくともドラマ版の彼女については)。

ちなみにアンチヒーローの定義については、ウィキペディア先生のところにうまくまとめてあったので参考までに。

アンチヒーロー - Wikipedia

常識的なヒーロー像である「優れた人格を持ち、社会が求める問題の解決にあたる」という部分から大きく逸脱していることが多い。

という説明で、わたしの言いたいことは大体察してもらえると思う。

デナーリスはいわゆる「優れた人格」とはおよそほど遠い。

自分が王になるのは当然の権利であり「運命」だと信じて疑わない。自分を支持しない愚かな人間は焼くしかないと思っている。人が焼かれていくのを見ながら眉ひとつ動かさない。人を残酷な手段で殺すことに対する罪悪感がほぼゼロ。自分の「子供」たちが無垢な人間を殺すことを何とも思わない。自分の「子供」たちを兵器として自分がのしあがるために利用する。投降した非戦闘員だろうが、自分に跪かない以上は処刑する。

すべてS7以前の描写である。ジョラーさんもミッサンディも生きていた頃の。

しかし一方で「社会が求める問題の解決」にはある程度成功してきた。主に奴隷解放という形で。これについては一定の評価をすべきだろう。彼女は自分に跪く者には慈悲を見せる。

なお解決方法は暴力一択である。彼女はほかの問題解決方法を知らない。「問題発生源を全部燃やせば何もかも解決する」という成功体験を、彼女はずいぶん重ねてきた。

ここまででなんとなく、彼女の造形はそもそもヒーローとアンチヒーローが混ざった状態だということがおわかりいただけただろうか。

 

デナーリスの非アンチヒーロー的部分

さてウィキペディア先生に、ライトノベル作法研究所の著作『キャラクター設計教室: 人物が動けばストーリーが動き出す!』からアンチヒーローの区分が引用されている。こんな感じだ。

  1. 自分自身の目的を達成するためには、手段を選ばない。
  2. 復讐を目的とし、自身の行為が悪行であると理解しながら、非合法な手段を採る。
  3. 社会から求められている正義を成すために、非合法な手段を採る。
  4. 性格が人格者とは言い難い。行動様式に人格者とは考え難いものがある。
  5. 法律や社会のルールよりも、自分自身で定めた「掟」を優先し、「掟」に従う。
  6. 外観や能力が本来的には「悪」に属するものを源とする。
  7. 行為も目的も悪であるが、一部の生き方などが読者や視聴者の共感を呼ぶ。
  8. ストーリーの主たる部分で称賛される行動を採るが、普段は侮蔑されるような行動をしている。
  9. 現状の体制が良い物だとは考えておらず、反体制の姿勢を選択する。

この本ではアルセーヌ・ルパンがアンチヒーローの代表格として紹介されているそうだ。自分がこれまで触れてきたエンタメ作品におけるアンチヒーローも、だいたい1~9のどれか、または複数にあてはまる。

さてデナーリスはというと、1はまあ誰も文句なく当てはまるというだろう。彼女は手段を選ばない。3、4、5もほぼ当てはまる。あの世界において「法」がどれほどの意味を持つかはわからないが、むやみに人を殺してはいけないというくらいの社会通念はあるのではないか(ドスラク人にはない)。9については「反体制」というか、そもそも他国を侵略するのが彼女の目的だ。

 

重要なのはここから。

2はどうだろうか? 彼女の動機のひとつにターガリエンをウェスタロスから追い出した者たちへの「復讐」があるのは間違いないが、「自身の行為が悪行であると理解」はしていない。全然してない。自分がウェスタロスを侵略するのは「暴君から民を解放するため」であり、「本来玉座につくべきなのは自分」だと考えている。

6は非常に重要。デナーリスは美しい。およそ悪役めいた姿をしていない。白人で、ブロンドで、若くて、女性だ。そしてエッソスにいた頃の彼女は青い衣装をまとっていた。あの世界であんな色の衣装を着ているのは、エッソスにおいてもウェスタロスにおいても彼女だけ。ブルーは、聖母マリアの色だ。あれは間違いなく聖母像を意識した衣装だったと思う。

一方でその能力(正確には彼女のドラゴンの能力)はあまりに凶悪。わたし以外にも何人もの方が、ドラゴンを核兵器の比喩として語っている。

この外見と能力の強烈なミスマッチはわたしにとってものすごい違和感だったのだが、白人の若いブロンド女性(美人)という補正はとんでもなく強力なバイアスになる。たぶんこれだけで彼女のアンチヒーロー的な部分をすべて見過ごせる人が出るくらいには。

7は議論の分かれるところだろう。わたしには彼女の行為も目的も悪に見えるが、そう見えない人には普通に共感を呼ぶキャラクターだったに違いない。特に虐げられてきた女性にとっては勇気づけられる描写も多かったはず。

8もそのままでは使えない。奴隷解放という行為は賞賛されてしかるべきだが、「普段は侮蔑されるような行動をしている」ともいえない。「普段は」ではなく行為の手段がまずい。それから非戦闘員や民間人を焼くのも「侮蔑されるような行動」どころではない。

 

ここでわたしが言いたいのは、

・デナーリスは自身の行動を「悪行」だと認識していないこと

・シナリオは彼女の行動が共感を集めるよう練られ、「悪行」が爽快に感じられるよう描写していたこと

・彼女の外見がアンチヒーロー的でないどころか聖母像的だったこと

である。これが彼女の非アンチヒーロー的部分。

つまりデナーリスは、いわゆる「アンチヒーロー」像からも逸脱した存在だ。

というかゲームオブスローンズにおける「いわゆるアンチヒーロー」ってリトルフィンガーだよな。アンチヒーロー大好き!

 

ヒーローの皮をかぶったアンチヒーロー

制作陣は明らかにデナーリスの悪行を見せながら、それを「ヒーロー」的行為として描いてきた。

だから彼女の非アンチヒーロー部分に注目した人には、彼女は普通に「ヒーロー」に見えた。

一方それ以外の部分に注目した人には、彼女は「アンチヒーロー」に見えた。しかし行動だけ見れば彼女は確かに「アンチヒーロー」なのに、彼女のヴィジュアルが、そしてシナリオが、さらには彼女の周囲を固める「善良な人々(ジョラーさん、ミッサンディ、グレイワームたち)」が、それを否定する。

このことが強烈な違和感、かみあわなさ、認識の不和を生んだ。だからわたしはあんなに彼女のパートで居心地が悪かったのだ。

しかし5話のデナーリスは、鐘が鳴ったあとに民間人を焼くことをおそらく「悪行」と認識していた。その上でアレを敢行したのだ。キャラクターの行為と演出がわかりやすくかみあった。今度こそ本当に、彼女はアンチヒーローになった。

やっと言語化できてめちゃくちゃすっきりした。そしてアンチヒーローとしてのデナーリスの好感度がめちゃくちゃ上がった。わたしはヒーローも好きだしそれ以上にアンチヒーローが好きである。アンチヒーローにしか見えないのにヒーローのように描かれるから感情移入できなかった。こういうことだ!

 

そしてつくづく思った。(そもそもこのブログは基本的に「面白い」もののみについて語る場所だから、わざわざ居心地が悪い件について語りたいとも思ってこなかったのだが、)デナーリス批判は勇気が要る。

わたしの周囲はリトルフィンガー推しの人ばかりで特にデナーリス推しの人と直接かかわってきたわけではなかったが、それでも前回彼女に「感情移入できない」と書いたとき、批判が殺到したらどうしようという不安はあった。今もめちゃくちゃある。5話がなければこのままこの気持ちは封印されていただろう。

それくらい、彼女はなんというか、現代社会に生きる女性の希望を背負っていた部分があったように見えた(わたしはあまりそのへんを追う気になれなくて詳しくないのだが)。子供に「カリーシ」と名付けた親もいましたなあ。その希望を粉々に吹っ飛ばした5話が賛否両論を呼ぶのは当然だ。

5話には多分に「警鐘」としての意味がある。

何に対する警鐘なのか、それはきっと視聴者によって異なるところだ。でもこの文脈で5話を読み取ってみるのもきっと面白いと思うのだ。

 

 

ああ~炎上しませんように。

 

ssayu.hatenablog.com