メインクエストに感情を振り回され、しばらくモーグリのところに入り浸って癒されたりしていたが、とうとう竜詩戦争を終結に導くことができた。パッチ3.3分までのところをクリアしたことになるのかな。
巷での評判通り、蒼天編はシナリオが面白いしNPCに共感しやすくなるよういろいろ配慮されていた。やはりNPCと共闘できると一緒に冒険している感があって楽しい。
蒼天編がなぜ「面白い」と思えるのかといえば、やはりキャラクターがとても魅力的に描かれているからだろう。もちろんその前提となる世界観を新生編でじっくり見せてくれているからこそなのだが、蒼天で冒険をともにするキャラクターはみんな魅力的だった。
個々のシーンを面白くしてくれたのはエスティニアンとオルシュファン、蒼天のシナリオ全体をプレイヤーに共感させる形で導いてくれたのはアイメリクとアルフィノだった。今日はそのあたりのキャラについて語ってみたい。
3.3までのネタバレ注意。
エスティニアン
早速だけど、彼を助けられてよかったなあ!
3.0の間ずっとフラグを乱立されていて、3.0をクリアしたときはもう彼を救えないのかもしれないと思った。あの赤くなった鎧を早くどうにかしろ! とずっと思っていたのだが、やっぱりあれをあのままにしておくのはよくなかったようだ。衛生管理大事。
「エスティニアンを救うことができた」というのが、結局のところ「蒼天のイシュガルド」の着地点とイコールになるように思う。
亡き者のための復讐に身を焦がした者が、今隣に生きる仲間によって救われるという構図。これこそが竜詩戦争の着地点だ。
あの式典で民を煽動したウェイトレスさんのように、竜への恨みを忘れられない人は実際にたくさんいるのだろう。どんなに英雄が華々しい戦果をあげたところで、彼らの気が完全に晴れることはないのだ。
彼らが再び前を向けるようになるためには、今隣に生きる仲間の差し伸べる手をとること。そんな「隣人」たるべくあろうとするのがアイメリクだ。彼は眠るエスティニアンのそばに付き添った「隣人」だった。この姿勢は為政者としてシステムの側から「優しい隣人」を作っていこうとする彼の姿勢を象徴するものだ。
ちなみにニーズヘッグにも「もうそのへんにしとこ?」と手を差し伸べてくれるフレースヴェルグはいた。彼はその手をとろうとはしなかったが。
エスティニアンはもちろんイゼルとも対になっていて(色の上でも赤と青だしな)、どちらも「持たざる者」として歩みを始め、自分に見えている世界以外を知らないまま、「ほかの解決法」を知らないまま、自分の理想を追ってその理想を失うことになる。
エスティニアンはイシュガルドの歴史が虚構であったことを知り、イゼルは「シヴァ」が彼女の幻想であったことを知る(「氷結の幻想」っていうタイトル、今思うといろいろ解釈できる)。
エスティニアンは倒すべき存在である竜に体を乗っ取られ、イゼルは本来守るべきはずだった貧民たちの命や生活を奪ったことを自覚する。どちらもアイデンティティを失うレベルの自己否定的行為だ。
ふたりとも孤独だった。そのふたりが出会い、ともに旅をして、互いに異質なものを知った。
イゼルは「凍えた体を温めるための仲間がほしかった」、そのために「大義をつくった」と語った。そんな彼女がこの旅で「仲間」を得て、まさにその仲間のために(そして彼らが築くであろう未来のために)自分を犠牲にした。悲しかったけれど、それが彼女の犯した罪に対して彼女自身が納得できる着地点だったのだろう。
彼女の最期の言葉が「ありがとう」でよかった。「雪原の中で震えていた少女」は、きっと救われたのだと思えるから。
そういえばイゼル/シヴァ実装当時はアナ雪ブームのただ中だったそうで……。
オルシュファン
彼については前回の記事で散々語ったわけだが、あれ以来、ククルカくんのせりふ選択肢の中にオルシュファン絡みの言葉が多くて、そのたびに傷を刺しなおされている気分だ。
それだけククルカくんにとってオルシュファンは大切な人だったし、目の前にいなくてもその行動を律するだけの影響を与えてしまう人になっていたのだろう。
オルシュファンの墓参りに行ったとき、立ち上がったククルカくんは笑顔だった。
それすらも、オルシュファンの最期の言葉の影響のように思える。
彼に「笑顔がイイ」と言われたククルカくんは、きっとこれからもここに来るときは笑顔を見せるのだ。
オルシュファンはククルカくんのことを英雄ではなく友として扱った。
階級社会であるイシュガルドで名門貴族の庶子として生まれた彼は、これまで「名門貴族の庶子」以外の扱われ方をされることはほとんどなかったと思われる。相手の肩書や立場を見て態度を変えるのが当たり前の社会で、きっと彼はそのことに疑問、あるいは抵抗を感じたのだ。それがオルシュファンからククルカくんへの態度をつくり、キャンプ・ドラゴンヘッド全体のあの優しい空気を生んだのだろう。
ククルカくんにとってオルシュファンは、初めて損得勘定抜きに友だと言ってくれる人だったのかもしれない。少なくとも冒険者になってからは初めてだった。
だからこそ、ククルカくんにとってオルシュファンは「戦う理由」になってしまう。
「オルシュファンにとって大切なイシュガルド」を守りたい動機ができてしまう。
「オルシュファンの守ろうとした未来」を作りたい動機ができてしまう。
だからやっぱり、オルシュファンの死と彼の遺した言葉はある種の呪いとなってククルカくんを縛ることになるのだろう、きっとこれからも。
彼が退場後まで、こんなにも物語全体を貫く存在になっていたなんて。やっぱりね、「蒼天のイシュガルド」はオルシュファンあってこその話だよ。
彼のエーテルの一部はきっとこれからもククルカくんのそばにあって、見守ってくれてるんじゃないかな。
でもできれば、戦争の終わったイシュガルドの蒼天を並んで見上げたかったよ。
ニーズヘッグ戦が終わってムービーを見ながら、ここにオルシュファンがいたらどんな言葉でほめちぎって喜んでくれただろうってずっと考えてた。
いちばん声を聞きたい人がそこにいない、どうしようもない喪失感。それでもその喪失感を抱えてこれからも旅は続いていく。
これって「MMORPGにおける拡張コンテンツの一つ」だからこそ表現できることではないだろうか。結構すごい手法なのではないかと思う。だって普通のゲームならここで終わりでしょ。友を失った英雄のその後は描かれないわけ。でもこれは拡張ディスクの2つ目であって、旅はまだまだこの先の方がはるかに長いはず。
「FF14はストーリーが面白い」とよく言われるが、その理由のひとつがこれなのだろう。すなわち「MMORPGでなければ表現できないストーリー」である。やっぱりその媒体ならではの表現方法とストーリーがかみあうと面白いものができるのだ。
アイメリク
蒼天編の重い話を、それでもかなり楽しく前向きに進められたのはこの方のおかげ。イシュガルドの良心にしてある意味最も「ファンタジー」な存在。
これまで散々信用できない人たちに振り回されてきたククルカくんにとって、長年鎖国していた国のなんかえらそうな人であるアイメリクは、最初は警戒の対象だったはず。少なくとも新生編の間は、彼をどこまで信用していいかわからなかった。
教皇が出てきたあたりからかな、アイメリクを信用しても大丈夫だと思えるようになったのは。イシュガルドで敵対することになるのは教皇の方で、アイメリクは信頼できる人だというのがこのときにわかった。
アイメリクはなんというか、とにかく誠実な人だ。
民に対して誠実であり、友に対して誠実であり、自分自身に対しても誠実で、プレイヤーに対しても誠実に役割を全うした。
わたしが彼を誠実だと感じたのは式典でのこのシーンかな。
「和平」を成すことの難しさ、戦争を終わらせたくない人の存在、敵を一人でも多く殺すことこそが生きがいでそれを奪わないでくれという声、そういうものに彼は正面から自分の言葉で向き合った。
彼もまた、この戦争で父親を亡くしている。それもほとんど自らの命令によって亡くした形だ。ククルカくんと出会う以前にも、騎士の仲間を亡くしたこともあっただろう。
だからこその説得力、なのだと思う。
この人がこうでなければ、蒼天編は全体を通して説得力がなく、響くものもない単に鬱々とした話になりかねなかった。彼のような「ファンタジー」な存在があってこそ、我々はこの戦争の物語を「楽しむ」ことができた。
この演説の後、アイメリクはククルカくんたちとともに旅に出る。かつてイゼルやエスティニアンとともに訪れた場所へ、今度はアイメリクとともに足を運ぶ。
この展開はあったらいいなとは思っていたが、本当に彼が直接竜との対話に赴くとは。ついでに試練まで一緒に受けちゃったりして。このへんもやっぱり誠実な人という印象に一役買っている。
ちなみにわたしのいちばん好きなアイメリクのせりふはこれ。
このとき初めて「為政者」としてではない、アイメリクの言葉を聞くことができた気がする。
でも彼はこの後すぐにそれができるのはまだだいぶ先だと言ってしまう。まあ、そうだろうなあ。今アイメリクが「冒険者デビューでっす」とか言い出したらイシュガルドが一瞬で傾くわ。
気ままな生き方は当分できそうにないが、いつか仕事を引退したら、そのときは雲海の向こうへとチョコボに(あるいはドラゴンに?)乗って羽ばたいてほしい。
アルフィノ
で、最後にもってきたアルフィノ。
誰もが認めるところだと思うが、蒼天編はマクロで見れば竜詩戦争とその終結の物語だが、ミクロで見ればアルフィノの成長物語だ。
これまで金は出すが口も出す、ククルカくんをパシリに使いまくり、挙句にエンタープライズ発進! とか言っちゃう政治大好き坊やだったわけだが、そんな彼がすべてを失い、自分自身を見つめなおして成長を遂げていく。この筋書きには多くの人が共感できたのではないかと思う。
しかし彼の成長を「年齢相応」と簡単に言ってしまうことはできない。人類の大半は、年齢を問わずこの状況でこんな成長は遂げられないからだ。
「無知の知」を自覚し、自分にできること、できないことを見つめなおし、これまで置かれていた恵まれた環境に気づき、ないがしろにしてきたものに気づき、些細なことでもできることが増えていくのを喜び、才を磨き、悩んだときはまず一人で納得いくまで思考する。
わたしはこの描写にこそアルフィノの「天才」性を見た。彼の中にある「聡い野心家」な本質は変わっていない。だが、だからこそこれまでの自分では実現すべき目標にまったく手が届かないという現実を直視し、自己改革にまっしぐらになれた。こんなこと、誰にでもできることじゃない。
ところがこれほどの自己改革にもかかわらず、彼は蒼天に入ってもさらに失い続ける。
オルシュファンもイゼルもミンフィリアも、アルフィノにとって大切な人だったはずだ。失い続けたアルフィノには、マトーヤの言葉が刺さる。
ここで立ち止まりはしたけれど、その後再びひとりで歩み始めたアルフィノは、今度こそ本当の意味で前に進むことができた。
その結実としてのエスティニアン救済だった。
このシーンは声優さんの熱演もあいまって本当に目頭が熱くなった(この後ククルカくんの手に重ねられた手で涙腺崩壊するわけだが)。
「エオルゼアの救済」みたいな大きな大義名分ではない、目の前にいる「隣人」を助けたいというもっと身近で切実な願いを、彼は口にした。
アルフィノにとって、エスティニアンは初めて「自分の手で救うことができた人」だ。彼ひとりで救ったのではない。ククルカくんもイゼルもオルシュファンも力を貸してくれた。
エスティニアンを救えたこと=アルフィノの救済であり、おそらくそれはそのまま、ククルカくんにとっての救済と地続きになっている。蒼天編のアルフィノは、ゲーム内のテキストでペラペラしゃべることのできないククルカくんの代弁者の役でもあるから。
「先に進む」ことによって救えるものもあるのだと、ここのところ失い続けてきたふたりはようやく実感できたのではないか。
大義のために戦ってきた孤独な英雄は、仲間を得て仲間を救うことによって自分が救われる――と書けば、イゼルの物語とも重ねられる。
大義のために虚構を並べるのではなく、隣に立つ良き隣人としてともに生きる道を示すと書けば、アイメリクの物語とも重ねられる。
蒼天の物語は、これだけテーマが徹底されている。同じ構造を何重にも使い、それらひとつひとつを時間をかけて描く。
イシュガルド関係のサブクエストを紐解けば、やはり同じようなテーマの物語がさらに広く張り巡らされていることに気づく。オルシュファンを亡くした直後のスープを配るクエストなんて、良き隣人のテーマの最たるものだ。
そんなわけで長々と語ってきたが、これだけ各キャラに対して語りたいことがある(本当はこの数倍ある)魅力的なシナリオだったという話だ。
で、実は今メインクエストは3.3終了直後で止まっている。
イベントムービーにアリゼーらしき人(たぶん……)が登場したのだが、「次にアリゼーに会う前にバハムートをクリアしとくのがおすすめ」と言われていたので、フォルタン家に担ぎ込まれたアリゼー(たぶん)はそちらに寝かせておいて、バハムート内でぴんぴんしているアリゼーと大冒険してきた。
いや、正確には万次郎(妹)が大冒険してククルカくんは大体死んでいた。
バハムート、申請しても全然シャキらなくて……。制限解除すればソロでもいけるって聞いたからふたりなら楽にいけるのでは? と思ったのだけど、全然楽ではなかったな! ふたりしてものすごい死にまくって、ギミックをぐぐってかなり試行錯誤した。
侵攻編だけクリアにたどり着ける気がしなくてパーティ募集した(来てもらった方たちはクリア済みのようだったけど、手伝いに来てくれたんだろうか。ありがとうございました!!)が、邂逅編と真成編はククルカくん(死体)の応援するなか万次郎がとどめをさしてくれた。
レベル50キャップ時代によくあんなのをクリアできたな!? というのがバハムートを通した感想である。先人すごい。
ともかくこれで心置きなくストーリーを進められる。
ここからは闇の戦士とやらにスポットがあたるのかな。登場した瞬間、あ! 新生祭のマメットの人だ! と叫んでしまった。まだ本編で名前が判明してないのにわたしは彼がアルバートだと知ってしまっている。いいのか公式よ。
彼もマメットになるだけあっていいキャラらしいので、続きのシナリオも楽しみだ。