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幻想と作り物「グランドブダペストホテル」感想・考察

以前から見たいと思っていた「グランドブダペストホテル」をようやく見ることができた。

見たいと思ったきっかけはエイダン・ギレンのインタビュー。その後「ピーキーブラインダーズ」エイドリアン・ブロディを知り、彼も出ているこの作品をもっと見たくなった。

この作品はGoogle先生に「コメディ・クライム」と分類されているが、「コメディ・クライム」と「ホテル」が結びついた作品のイメージとはだいぶ違うもののような気がする。しかしこの作品をどう分類するかと言われれば、確かに「コメディ」であり「クライム」にするしかないだろう。人が死ねば死ぬほどコメディ度が上がっていく作品だ。

そういう視聴者の当惑すら、この作品の「コメディ」構図の一部と考えてもいいのかもしれない。何しろこの作品は、何重にも仕掛けられた入れ子構造(実にドイツ的である)になっているのだから。作品の外側にすら「入れ子」があってもおかしくない。

 

さてこの作品がウィーンで活躍したシュテファン・ツヴァイク(Stefan Zweig 1881-1942)にインスパイアされていることとか、作中に登場する作家がツヴァイクをモチーフにしているとか、当時の知識人層との広いネットワークを構築していたツヴァイクの一面がグスタヴのキャラクターに表れているとか、ツヴァイクの得意とした「入れ子構造」を持つ(「入れ子構造」はツヴァイクの、というか「ドイツ文学」における伝統芸みたいなものである。そもそもドイツ語自体が文法的に「枠構造」をひたすら作っていくもので、ドイツ語圏の思考・思想はこの「枠構造」に強く規定されている)伝記ものスタイルを作中でも用いているとか、そのへんのあれこれはちょっと検索すればすでに日本語でいくらでも読むことができるので、ここではそのへん以外のことを語ってみたい。

全編ネタバレ注意。

 

 

 

 

絵本的表現と文字

この作品の感想を眺めていると、いろいろな人が「絵本的」だと述べている。

それはまったくそのとおりで、まず何種類かある円盤パッケージがとても絵本的なデザインだ。記事のいちばん上に貼ったものもそうだし、ほかのものもこんな感じ。

 

おしゃれでかわいらしくて、どこか非現実的な印象を受ける。

その印象は映画本編も同じだ。どの場面もまるで「一枚絵」のような構図で、おしゃれでかわいらしくて、どこか非現実的である。

建物や雪山は露骨に「作り物」っぽくかわいらしく、とりわけ絵本的だ。

ひとつには、このお話はある作家の描いた「物語」なのだと伝える意図があるのだろう。しかもその「物語」も、泊まったホテルで一度だけ伝え聞いた「伝聞」から作ったものだ。

これはある種の「信頼できない語り手」というやつで、どこからどこまでが「現実」にあったことなのかわからない。「泊まったホテルでゼロと会った」ところからすでに「創作」だった可能性すらある。

脱獄シーンやら雪山でのスキーとそりでのアクションシーンやら銃撃戦やら、一部やたらと「雑」なせいでそこがまた笑えるのだが、結局それも「ゼロがどこまで詳しく話したかわからない」「作家がどこまで脚色して書いたかわからない」という表現なのかもしれない。

 

わたしは撮影技術的な部分のことは詳しくないが、決定的にこの作品を「絵本的」たらしめているものについてネット上であまり語られていなかったので書いてみる。

それは文字である。

この作品、とにかくやたらと文字での説明が多い。これが「子供向け絵本」っぽさを増すのに一役買っている。

冒頭の OLD LUTZ CEMETERY と冗談みたいに馬鹿でかく書かれた墓地の文字、GRAND BDAPEST HOTEL というホテル看板、お菓子の箱に書かれた MENDL, 路面電車に書かれた LUTZ, 新聞屋に書かれた PRESS, 拘留所にはこれまた冗談みたいな大きさの CHECK POINT 19, 脱獄のときに見えた車には LUTZ EXPRESS, 美術館には KUNSTMUSEUM(ちょいちょいドイツ語表記がある)などなど。しかもこのへん、どれもよく似た大文字の太字のフォントを使っているのがまた絵本っぽい。

ホテルの壁にもエレベーターやレストランの方向を示す札もやたらと貼ってあるし、書類やら新聞記事やら名刺やら、あらゆる場面、あらゆるパートに文字が仕込まれている。

極めつけが、ゼロのずっとかぶっている帽子の LOBBY BOY の文字である。あんなデザインの制服、現実にはありえないだろ! わたしは序盤、あの帽子を見るだけで笑ってしまった。いやわたしは20世紀初頭のヨーロッパのロビーボーイ制服に造詣が深いわけではないので実際にああいう帽子があったのかもしれないが、もし帽子に文字を入れるとしたら、たぶんホテルの名前とかではないのか。

とにかくこの作品にはしばしば、現実にはありえないくらい誇張した形で文字が出てくる。あれは「ものに記号的に名前を与える」行為である。たとえば〇を描いてその隣に「太陽」と書けばそれは太陽と認識され、「月」と書けばそれが月と認識されるようなやり方で、絵本や漫画ではありえるが映画ではあまり見ないやり方だ。普通、映画であれば「本物」または「本物そっくりなもの」を用意して撮影すればそれですむからだ。

この作品はあえて「本物から少しずらしたもの」(つまり建物の模型とか、ゼロの制服とか)を作り、それを視聴者が「この模型っぽいものをホテル外観だと思えばいいのね」と了解することで成り立っている。何から何まで。執拗な文字の反復は、その面白さを誇張するためのものでもある。

 

「本物から少しずらしたもの」といえば、そもそも作中世界の歴史もそうである。

明らかに現実の第一次~第二次大戦期の中欧が舞台だが、少しずつ異なっている。SSならぬZZの旗もそうだし、国の名前は「ズブロフカ Zubrowka」ときた。わたしの好きなポーランドウォッカの名前が元ネタか。

 

日本人にはよく「桜餅の香り」と言われるやつ。おいしいよ。

 

さて「作り物めいた表現」で固められてできあがったゼロ。彼は LOBBY BOY の帽子をかぶり、口ひげまで雑に描いたメイクである。

彼があの帽子をとって現れるのは、グスタヴの脱獄シーンから(たぶんそれ以前にはなかったと思う)。時系列的には、それより以前にアガサの前で帽子をとっていたことになるか。

これはわかりやすく、グスタヴにとって彼が「交換可能なロビーボーイのひとり」から「ゼロ」という人格になったこと、アガサとは「ロビーボーイ」ではなく「ゼロ」として恋仲になったということを表していると思われる。

 

「幻想を形にする」のが「グランドブダペストホテル」のテーマのひとつであったことを考えると、ずらされた歴史も作り物めいた世界も作品にとって必須だったのだろう。

 

第二次大戦とマイノリティ

さてこの映画、入れ子構造のいちばん内側は楽しいコメディで冤罪も晴れてハッピーエンドっぽいのだが、その一歩外は悲劇である。

オチを知った視聴者はシュテファン・ツヴァイクへの献辞を見て、コメディの中にずっと引っかかっていたものがすとんと納得できる。

この作品には、ナチスによって迫害された立場の人たちがちらほら登場していた。グスタヴはユダヤ人でありバイであり(ゼロも最初はグスタヴのターゲットだったはず)、ゼロは移民労働者であり、足が不自由な人のリフレインもあった。言うまでもなく同性愛者も障害者も、ナチスを初めとした優勢思想においては真っ先に「排除」の対象となるマイノリティだ。

シュテファン・ツヴァイクユダヤ人で、亡命先のブラジルでヨーロッパの未来に絶望して自殺した。

そしてここがいちばん面白いと思うのだが、そんなキャラクターを背負ったグスタヴも、ゼロに対しては「未開の地からやってきた野蛮人」のような偏見丸出しである。

詩の引用を好み、話し方も上品で教養がある文化人、自身もマイノリティに属する人、そんな彼ですら自身の偏見からは逃れられない。これは20世紀初頭の文化人の限界を示しており、同時にひるがえって「現代に生きる我々の限界はどこだ?」と問う構造にもなっている。

現代の文化人とされる人たちも、100年後にその言動が忠実に映画化されればその時代の人から「これがこの時代の限界だった」と間違いなく言われるだろう。いや、言われるべきなのである。それは100年後の社会が今より良くなっているということなのだから。

 

 

自分にとっての面白ポイントを延々と語ってきたが、この作品は人によって面白ポイントが大きく異なる作品ではないかと思われる。いろいろな人の感想を読みあさりたくなる映画のひとつである。この感想もネットの海に放流して、本日はおしまい。

 

 

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