「漆黒のヴィランズ」5.0までクリアした……!
FF史上最高傑作とまで言われた評判にも納得のストーリーだった。
MMORPGなのでプレイするにはまず環境を整える必要があるのだが、それを乗り越えてでも多くの人に触れてほしいと思えるものだった。
MMORPGだからこそ可能な、長い長い時間をかけた積み重ねが生きる物語であり、これまでMMORPGでは難しいとされてきた部分を乗り越えた物語でもあった。
まだ自分の中でも全然整理できておらず、グルグ火山以来ずっと呻き続けているのだが、わたしには書くことがセラピーになるのだとわかっているのでとにかく書いてみる。
何もかもネタバレしているのでプレイ途中の方は引き返して漆黒まで追いついてからどうぞ!
漆黒のヴィランズ - アシエン・エメトセルク
漆黒の何がよかったって、彼のキャラでしょ。
紅蓮の頃からヴィラン描写を頑張ろうとしていた感はあったが、エメトセルクは頭一つ抜けていた。
明らかに、彼はプレイヤーに共感させようとして造形されたキャラクターだ。
「ヴィランはどちらなのか?」
という問いを抱かせるためのキャラクターだ。
「漆黒のヴィランズ」のタイトルが複数形になっているのは、光の戦士が「叛逆者」として暁のみなさんとパーティを組んでいること、アルバートの存在、そして光の戦士とエメトセルクを対にして「ヴィラン同士」としてくくっているようにも解釈できる。クリアしてから意味がわかる、いいタイトルだ。
アーモロートの町を歩きながら、善き市民たちと話しながら、ただそれだけで泣きたくなった。みんな穏やかで優しくて、そして今はもうない。まさに失楽園。
優しくて寂しい音楽はそのままエメトセルクの故郷を想う心情なのだろう。
ラスボスが「俺様はラスボス城で待っているぜ!」と言い残して去っていく展開はよくあると思うが、ラスボス城に行ったらそこで優しく歓迎されてしまう展開は初めてだった。この戸惑い、感情をどこへもっていけばいいのかわからなくなる感じ、本当に初めての経験だった。
アリゼーのこのせりふがとてもいい。
このときプレイヤーも含めて、その場の誰もが同じことを考えていただろう。自分がアシエンの立場ならどうしただろうかと。それをちゃんと口に出して言える彼女が好きだし、ここをちゃんとセリフとして書き起こすシナリオが好きだ。
もし光の戦士や暁のみんながアシエンの立場なら、エメトセルクのように最後まであきらめずに、同胞を取り戻すために尽力するのではないだろうか。
もし自分なら……うーん、たとえばこの世界にいる蚊の命を大量に捧げれば自分の大切な人を蘇らせることができると言われたら、やってしまうかもしれないな。たぶんアシエンの感覚ってそういうものでしょ。むしろ蚊の側にあれだけ歩み寄れるエメトセルクがすごいわけ。優しくて、穏やかで、悠久の時を生きるからこそなわけ。
光の戦士はもともと、エメトセルクの友人か恋人だったのだろう。もしかすると、最初に抜けたという14人委員会のメンバーだったのかも。
エメトセルクはこれまでにも「彼」の魂を持つ人を何人か見てきたんじゃないのかな。そのたびに、自分のことを思い出さず、かつての力も失って、「愚かな行い」で身を滅ぼすのを見て嘆いていたのかも。
毎回期待して、そのたびに絶望して。かつての友を大切に思うほど、今の「彼」の姿も言動ももどかしく、苛立たせるものだったに違いない。こんなモノじゃないのに、と。昔はできたことが今はできなくなっているのを見るのは、どうしたってもどかしくつらいはず。
エメトセルクの「期待はするけど入れ込みすぎない」態度には、そういう背景があるように思う。彼がすごいのは、それでもあきらめずに期待し続けることなんだよな。
このせりふも、この後アーモロートに行くと、かつてのアーモロート市民には普通に常識的に「それが可能だった」のがわかる。可能だった頃の「彼」を知っているからこその苛立ちだ。
こんなふうにでも言わなければやっていられなかったんだろうな、と今はわかる。
ただ、この後目を覚ましたときのククルカくんの悲しそうな顔ときたら……。
こんな顔してるの初めて見たよ。
共感と孤独
アーモロートでの数人との会話から、古代人が重視したのは「対話」「調和」「共感」あたりだったことがわかる。彼らは他者を尊重し、異なる意見を認め合い、未知のものを求め、多様性に憧れる。
外見的差異をなくすことにはこだわるが、精神的・内面的な多様性は重んじられるらしい。この部分は現代思想的にちょっと面白い。
で、「対話」も「調和」も「共感」も、いずれも「他者」を必要とするものだ。数を減らしたアシエンが、永い年月を孤独に過ごしてきたと思うとまたつらい。
ラハブレアがどうだったのかはわからないが、エメトセルクは特にこの「共感」を求めるキャラクターだったように思う。だからこそ彼はヴァリス帝にも光の戦士ご一行様たちにも世界の真実を打ち明け、自分たちの事情を打ち明けた。サンクレッドとミンフィリア(当時)の間に対話が足りないと諭すシーンも、古代人の性質を知るとさらに納得だ。
自分たちのことを語りたい、理解されたいという欲求を抱えたエメトセルク。
しかし分割後の人間には古代人と同じ感覚はそなわっておらず、エメトセルクの求めるような「共感」はなかなか得られない。ここも彼にとってもどかしかった部分だと思われる。
このせりふが重い。
エメトセルクだって、かなうことなら自分たちを救ってくれる英雄を望みたかったのではないか。あるいは自分が同胞を救う英雄となるべく努力を続けてきたのではないか。
でもそんな頼りになる英雄はいなかったし、自分も英雄にはなれていない。
だがアーモロートの議事堂で、また崩壊後のアーモロートで、彼らは「対話」をした。
この対話で、エメトセルクは「共感」してしまったのではないだろうか。また自分たちの記憶も、執念も、希望も、絶望も、理解され継がれていくのだということがわかってしまったのではないだろうか。
だからこその最期の笑みだったのかなあ、とか。
「彼らが確かに生きていた」ことを、今の人間たちが語り継ぎ、覚えていてくれるだろうとわかり、荷をおろしてもいいと思えた……のだったらいいなという、これはわたしの願望だ。
永い孤独の末に求めていた共感を得ることができていたなら、彼が少しでも救われる気がして。
失楽園とバベルの塔
アーモロートはとてもわかりやすい失楽園だ。
古代人たちは楽園を追放され、満たされた生活を失った。
キリスト教における楽園の名前がエデンなわけだが、そういえば漆黒のアライアンスレイドの名前もエデンなんだっけ。示唆的だな。
『創世記』における失楽園では、ヘビにそそのかされたイブが知恵の実を食べたことが原因とされる。
それでは原初世界におけるあの「災厄」は何が原因だったのか。
こういうせりふを見ていると、「災厄」は停滞を恐れる彼ら自身が具現化してしまったものなのではないかという気もする。このへんはもしかしたらこの先語られるのかもしれない。『創世記』におけるヘビにあたる何かが、こっちにもいたりしたんだろうか。
また古代人たちのあの不思議な「言葉」を聞いていると、バベルの塔を思わずにいられない。かつて人は同じ言語を話し、天にも届く塔を作ろうとしたが、神の怒りにふれて別々の言語を話すようになり、塔の建設が中止されたというあれ。
アーモロートにも大きな塔があり、彼らの言葉は今の人間にもなぜか理解できる。「言葉の壁を超える力」は、光の戦士にそなわっている「超える力」の能力のひとつだが、これも古代人由来なのだと思われる。
5.0で世界の秘密が次々と明かされたが、そのベースにあるのはこのへんの神話だろう。
クリア後に Shadowbringers の歌詞を見ると、
Home
Riding home
Dying hope
Hold onto hope
の部分はエメトセルク視点だよなあ。
これからゲームを立ち上げてタイトル画面を出すたびにあの Home... を聞いて彼のことを思い出すのだろう。
ハーデス戦
ラストバトルも熱かったな。
涙で前が見えないせいでいつのまにか死んでたけど。ひどいギミックだ!
今まで蛮神相手だと光の戦士以外は太刀打ちできないせいで、どうしてもほかのキャラクターが「主人公頼み」になりがちだったが、漆黒ではNPCたちが最後まで活躍できて、シナリオの流れとしてもよかった。
「蛮神は人間をテンパード化してしまう」「光の戦士は蛮神のテンパードにならない」という設定、最初は何者でもなかった放浪の冒険者を「英雄」にするためには必要なものだったが、その後のシナリオにおいては枷になっていた気がする。今後はシナリオも蛮神から離れていくことになるのかな。
ちなみに「光の戦士は蛮神のテンパードにならない」という設定についてアルバートが「ハイデリンのテンパードだからなのでは」と言及していたが、割とありえる話だと思う。
今は懐かしきイフリートさんが、先に別の神の加護を受けているとテンパードにならない的なことを言っていたように思うが、先にハイデリンのテンパードになっていたとしたらイフリートのテンパードにはなるまい。
ハイデリンとは何なのか、ゾディアークがいるとどんなデメリットがあるのか、古代人の失楽園はハイデリン側から見るとどういう現象だったのか、このへんはこの先のストーリーをお楽しみにということで、考察は棚上げ。
意味がわかってぶわっと涙腺にきたのがこのシーン。
アルバートの斧なんだなあ。
MMORPGではプレイヤーごとに主人公の体格も持っている武器も違うから、ボスに対して武器で挑むムービーを作るのは難しい。杖くらいならいいけど本で殴りかかるムービーとか、FF3オマージュにしてもどうかと思うし。だから今まではよくわからない光の加護で倒したことになる展開が多かった。
そういう問題をうまく解決しつつ、ストーリー上の必然性も持たせたこのシーンの巧さよ。
ラスボス戦前に、グ・ラハが時間と空間を超えて光の戦士を召喚するのもすごくいい。まさにMMORPGならではの展開。
あれは設定的には別の世界の光の戦士だったり、過去に消えた世界の光の戦士だったり、かつての原初世界で霊災時に表れたという光の戦士だったりするのかな。
みなさんアイテムレベルがめちゃくちゃ高くて、わたしが死んでもすぐに起こしてくれて、強い攻撃もものともせずクリアしてくれた。別の世界の光の戦士つよい。
アルバートやグ・ラハや暁のみなさんについて語りたいことはもっともっとあるのだが、今日のところはひとまずここまでにして、わたしはゲームに戻ることにする。
冒険は、続いていく……!