なぜ面白いのか

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ファウスト型物語として読む「昭和元禄落語心中」感想

前回の続き、「昭和元禄落語心中」の感想。

どうやらコミックス10巻には特装版というのが存在し、本編を補完する小冊子がついているとか。なんですのそのやらしい商売。調べてみたところ本日時点でアマゾンではプレミアがついているが、ほかのオンライン書店では普通に扱いがあるようだ。仕方ない、買いなおすか!

以下、コミックス10巻までのネタバレ感想。

アニメのみ視聴中の方は、見終わってからまたどうぞ。この話、ネタバレせずに見た方が絶対にいいから。

感想前編はこちらから。

ミステリィとして読む「昭和元禄落語心中」感想 - なぜ面白いのか

 

 

 

芸に魂を捧げる

前回は「落語心中」をミステリィ・サスペンスとして読んだ場合の感想を書いた。

今回はまた趣向を変えて、同じ話を「ファウスト型」の一種として読むとどうなるかについて考えてみたい。

ファウスト型物語といえば、特に近代以降さまざまな作品がある。ここで細かい定義について述べるつもりはないが、わたしは「願いの成就とひきかえに魂を捧げる」ような場面があればファウスト型かなーと思っている。これに加えて「願いは成就するが自分または身近な人の身の破滅を招く」「自分に、あるいは世界に満足すると死ぬ」などの要素が加わると、さらにファウストっぽくなる。近年のアニメでファウスト型の典型といえば、「魔法少女まどかマギカ」とか。

 

菊比古の場合

さて「落語心中」をファウスト型として見る場合、「願い」とは芸を極めることだろう。菊比古も助六もそれを願った。特に菊比古(というか八雲師匠)は落語の神(=ファウストでいうメフィストフェレス)に会うために刑務所での慰問に出かけている。

菊比古は、芸を極めるために「孤独」を願った。結果として助六は落語界を去り、みよ吉は助六とともに東京を去り、七代目八雲は亡くなった。七代目が亡くなったあと、菊比古は「死神」をかける。そこで初めて死神の姿を「はっきりと見」ることができたのだ。七代目の魂と引きかえに、菊比古は芸の極みに手をかけた。

そしてその後、今度は助六とみよ吉の魂と引きかえに、菊比古は八雲となる。以降、同世代にライバルもいなくなった八雲は「昭和最後の大名人」の名をほしいままにする。

しかし八雲の願いは矛盾を抱えていた。「孤独」を愛する気持ちも本物だが、同時に小夏、与太郎、信之助ら「静寂を乱す」者たちのことも愛している。かつて助六やみよ吉という「静寂を乱す」者たちを愛していた八雲が、完全な孤独のみを求め続けることなどできるわけがないのだ。

与太郎や萬月さんに教えを授け、自分の血を引くものを残し、弟子が一人前になるのを見届け、小夏と和解し、それらに幸せを感じていたのも、まぎれもない八雲の一面だった。寄席が燃える直前、死神と言葉を交わすことができたときが、八雲の芸の頂点だろう。八雲が本当に芸と孤独のみを愛したのなら、あのとき死んでいたはずだ。「落語をやりながらぽっくり逝く」のが理想の死だと語っていたくらいなのだし。

八雲をこの世に引きとめた最後の未練は、小夏との和解、そして小夏と落語との和解だったのだろう。それをクリアしたとき、小夏と信太郎、それに与太郎の落語に包まれて、八雲は自分と世界に満足した。メフィストフェレスは、自分に奇跡を願った者が満足し「時間よ止まれ、汝は美しい」と言った瞬間に魂を狩りにくる。「時間よ止まれ」の台詞こそなかったものの、八雲はあのときすべてに満たされて、魂を死神に明け渡したのだ。

「落語心中」というタイトルでありながら、八雲の本当の望みは落語と心中することではなかった。まったくこのお方は、肝心なところで嘘をつくのだから。

 

助六の場合

一方助六は、何を望んでいたのだろうか。八雲の名を継いで落語の寿命をのばすことだろうか?

八雲の名に執着があったのは間違いないが、なんとなく、それだけではなかったのではないかという気がしている。助六の方こそ、幼い頃の菊比古と同じで「自分の居場所」を求めていたのではないだろうか。だから本当に自分を求める人が目の前にいるとわかったとき、落語を捨てて家族をとった。

もう一つの助六の望みは、他人に自分を、そして「助六」の名を認めさせることだった。本当は七代目八雲に認めてもらいたかったに違いない。「八雲」に「助六」を認めさせることを願っていたに違いない。しかしそれはかなわなかった。

だが菊比古に認めてもらうことはできた。あの最後の「野ざらし」の前、菊比古は助六のことを「兄弟子」と呼び、八雲の紋付を着せた。「野ざらし」のあとはあれほど一人になりたいと言っていた菊比古が「一緒に暮らそう」と言う。初めて菊比古と料簡が合ったと喜ぶ助六は、あの時点で自分と世界に満足してしまったのだろう。何よりもあの「野ざらし」の出来に、助六自身が満足していたのだろうし。だからそこで蝋燭の火は消えてしまった。

 

与太郎の場合

前回の記事で与太郎のことを、「我がない」こと+「共感能力」によって芸の新たな道を進む超人と評したのだが、それに加えて与太郎には霊・死神を祓う能力のようなものまである。

八雲や小夏が助六やみよ吉の霊に出くわしたとき、それを祓うのはいつも与太郎の役目だった。死神の手を取りかけた八雲をこの世に引き戻したのすら、与太郎だった。

その与太郎が最終話でとうとう死神と出会う。あのシーンについてはまだ自分の中でも結論が出ていないが、暫定的な考察を書き残しておきたい。

「死神」の話の中で現れた「八雲」は、八雲ではなく死神だったと思われる。八雲は助六やみよ吉と違い、お金を払って三途の川を渡っていったから、現世に現れることはできないはずだ(あの世の仕組みについて論理立てて考えても仕方ないのかもしれないが)。

願いをかなえる(=この話においては芸を極めるのを助ける)メフィストフェレス的役割を持つ死神を、しかし与太郎は求めなかった。あろうことか「夢オチ」にしてしまったのだ。与太郎が死神に会えたのは、与太郎の芸が「そこ」まで到達したことを表すが、同時に彼は死神の助けを必要としていないこともわかった。「笑い」によって死神を祓う与太郎は、うん、ここでも割と超人設定だな! でもそれが主人公ってものだよなー。

 

小夏の場合

ファウストメフィストの話からはそれるが、小夏についてまた少し考えることがあったので書き添えておきたい。

小夏は、助六のもとでは子供らしくあることができなかった。働かない、家事もしない助六と、家にいないみよ吉のおかげで、彼女は早々に「大人」になるしかなかった。

彼女が唯一「子供」であれたのは、助六が落語をやってくれるとき。だからこそ小夏にとって落語は特別なもので、父親には落語を続けてもらいたいと思っていた。

 

一方菊比古に引き取られた小夏は、すっかり「子供」として振る舞っている。泣いたりわがままを言ったり、とにかく菊比古に甘えることができている。助六に対してもみよ吉に対してもできなかったことなのではないだろうか。菊比古と「親子」になることで、ようやく小夏は「親を困らせる」ことができるようになったのだ。

小夏はどれくらい、そのことを自覚していただろうか。少なくとも最終話での小夏は自覚しているだろう。なんというか、いろいろ難しいし、ままならない話だ。しかしその彼女も、願ったことはほとんどかなっているのだから最終的にはハッピーエンドか。

 

いろいろ楽しく考えながら、二周目、三周目と読むことのできる作品だった。

アニメも最後まで楽しませてもらおうと思う。

 

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