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次元黄道から人生を眺めて「ファイナルファンタジー14黄金のレガシー」クリア後感想

「黄金のレガシー」クリアしたー!!!

いろいろあって大変な旅だったけども、楽しかったなあ! そしてこのあといったいどう展開していくんだろう。

いやもう、これどこから語ろうか。

必然的に政治と宗教の話になるから、やはりここは野球の話からする? 暁で打線組む? エスティニアンをセンターにおいたらジャンプで全部捕球しちゃうから、ホームランは発生しないな?

最後のマップを進めるのが苦しくて現実逃避しまくって、延々と野球をするヒカセンたちのことを考えてたんだよな。

野球の話はまた今度にして、今日はとにかくエンディングまでのネタバレ感想だ!

 

 

 

ラスベガスの噴水か!?

 

 

リビングメモリー

最後のマップに入ったときに入口で友が出待ちしており、「ようこそ~」とか言うので、思わず「死んでたの!?!??」と叫んでしまった。

めちゃくちゃディズニーシー感のあるマップと、そこで穏やかに暮らす永久人たち。ここが天国か。天国的な場所としてデザインされているのは間違いない。

わたしは友とうきうきで記念撮影をしたが、同じ場所が友にはまったく違って見えていたんだな……。

あとで友に送ってもらったスクショ

これ、完全にウルティマトゥーレの逆じゃん!! 

ウルティマトゥーレはデュナミスによって再現された死者たちと対話して、仲間たちのデュナミスによってあの世界を改変してメーティオンまでの道を創りだした。

リビングメモリーではエーテルによって再現された死者たちと対話して、シャットダウンによってあの世界を改変してスフェーンまでの道を創りだした。

ウルティマトゥーレは絶望に呑まれた星々の話から希望を見出し、世界を創りなおす物語だったが、リビングメモリーは満たされた死者たちを消去し、あの世界を終わらせる物語だった。

ウルティマトゥーレではぼんやりした音楽が、話の進行とともに次第に輪郭をなし、リズムを刻み、歌詞が聴こえるようになる。リビングメモリーでは優しい音楽が(ていうか過去作のアレンジが多くてそっちでメンタルをぶん殴られている)シャットダウンとともに消えてしまう。

見事な対称性である。

同時にエルピスやアジス・ラーのような「生命への冒涜」感もある。エリアが用途・役割ごとに区切られていて、それぞれに性格や景観が異なるところも似ている。

最初のメディテレーニアンハーバーカナルタウンをシャットダウンしたときにそのあたりを察して、以降の進行は猛烈にパワーを要した。1日に1エリアずつしか進められなかったな……。

 

ここのエリアの、というか「黄金のレガシー」の感想は、どうしたってプレイヤーの死生観、宗教観を大きく反映したものになる。

わたしの死生観は高校生くらいの頃からずっと変わっていなくて、

・人格や精神、心などと呼ばれるものは電気信号の集合体である

・電気信号が失われた時点で、その人を形成する人格も知識も教養も失われる

・そのため、現代の技術において死後に何かを残そうとするならば、他者とのコミュニケーションによって記憶に残してもらうか、もしくは文章などの形にしておく必要がある

・人格の本質が電気信号であるならば、それをデータ化してある程度のところまで再現することはいずれ可能になる

・データの再現はある程度まで可能であり精度を高めることはできるが、完全なコピーなど理論的に不可能であり、オリジナルとは別物である

・魂や死後の世界などを説く宗教は、死者のためではなく生者の心の安定のための発明品である

みたいな感じ。

つい先日、仕事で「人格をデータ化して機械に入れるとどうなるか」みたいな話をしてきたばかりのところだったので、その前にリビングメモリーまで来ていればもっと生々しい想像ができたのになと思ったりした。

たぶんこの、コピーとオリジナルを同質のものと考えるか否かによって、リビングメモリーのシナリオの受け止め方は結構変わるのではないかと思われる。わたしはオリジナルとは別物、文字通りの人工の知能、Artificial Intelligence だと思っていたけど、それでも進めるのが相当苦しかった。

なんかこう、別物だと思っているから余計に、今ここにいるカフキワさんも「本当は息子と一緒に冒険したかったけどできないまま亡くなった」し、ナミーカも「ウクラマトと再会できずに亡くなった」し、クルルの両親も「娘と再会できずに亡くなった」ことを改めて突きつけられてしまう。

結局、永久人の存在はやっぱり、生者にしか意味がないものだ。再現されたデータに「オリジナルが言いそうなこと」を言ってもらうことで「生者が満足する」ためのものだ。わたしにはそう見える。

(というかそもそも、このシステムは生者のために死者=スフェーンの人格を再現することを目的として構築されたものだし)

でも、だからこそ、スフェーン以外の死者の記憶が生者から消えてしまうのはあんまりだ。

もちろんオリジナル自身にとっても自分が生きた証が世界のどこかに保存されるということ自体は救いになるかもしれないけど、自分が生きた証が生者に何の影響も与えない形で保存されていたところで、何の意味もないじゃないの。生きている人はみんな自分のことを覚えていない状態で、データだけが残されていたって、そんなことに意味があるとは思えない。閲覧されてこそのデータじゃないの。少なくともわたしにとっては、墓参りの目的地になるだけ墓標の方が何百倍も意義を感じる。

生者のためにこそ存在している(ように見える)永久人が、生者からは存在ごと忘れられて面会もできないという虚無。大戦後の混乱期に(悲しみを拭いさる目的もこめて)作られたシステムだから、その設定自体がむちゃくちゃなのはわかる。まったく持続可能性がないデザインで、なしくずし的に始まってしまったのも、まあ現実にそういうシステムっていっぱいあるしな……と身も蓋もない納得の仕方をしている。

でも、さすがにやっぱりこれは終わらせるしかないでしょ。国を再建させるにしても、いったん終わらせないとどうしようもないでしょ。

 

ククルカくんがコピーとオリジナルについてどれくらい区別して考えているか、というかどれくらい理解しているのかセリフからは計り知れなかったが、わたしとしてはククルカくんから見てもやっぱり「オリジナルとは別物」に感じられるのではないかと思っている。

だってククルカくんは星海まで行って命のめぐりを見てきた人だよ? そこで死者の強い感情がどんなふうに残るのか見てきた人だよ? リビングメモリーに存在しているのがいくらエーテルによって構成されている「物質」だとしても、「全然違う」と思ったんじゃないか。もちろんウルティマトゥーレに再現されたものたちとも全然違う。

だからこう、あの世界と永久人たちを「終わらせる」ことについては、わたしもククルカくんもほとんど抵抗はなかった。理屈の上では。感情的には、また別である。

「彼ら(死者)」の感情ではない。「わたしたち(生者)」の感情の問題だ。

データはデータである。よくできたSiriさんに話しかけているのと同じだ。でもSiriさんとのコミュニケーションで満たされる人間の心理状態は無視できない。

ウクラマトもクルルもエレンヴィルも、「データ」ではなくほとんど「本人」に接しているかのように対応していた。そして「データ」あるいは「人工知能」とのコミュニケーションによって満たされていた。それだけ精度の高い再現だったということなのだろうけども。もうちょっと「よくできてるけどこれは別物」側の反応をがっつり見せる人がいてもよかった気がする。

で、そういう距離のとり方ができないくらい、データに愛着を感じる仲間たちに、データの消去をさせなければならないという残酷さよ。これがやっぱり心にぐさぐさきた。しんどかったなあ。

 

これね、光の戦士としてプレイしている人ならみんなそうなんじゃないかな。

わたしにとってククルカくんはただの「データ」だけど、ククルカくんのデータに愛着を持っているし、もしこのデータを消去しなければいけなくなったら猛烈に悲しい。「ククルカくんが悲しむ」のではなくて、悲しみの主体はあくまでわたしなのだ。「喪失を悼む」のは、生者の感性である。

リビングメモリーでの一連の物語をわたしの視点から説明すると、大体こんな感じである。本当に人によって感じ方が異なる物語だっただろう。すごく面白い試みだった。

 

ちなみにククルカくんにはこういう形で再会したい人はいるだろうかと、ラハくんに問われてからずっと考えていた。

暁月以前のククルカくんなら、オルシュファンとはこういう形でもいいからもう一度会いたいと思っていたんじゃないかな。暗黒騎士の紅蓮クエストでもああいう描写があったし。

でも今のククルカくんは、星海でオルシュファンっぽいエーテルの残滓から力をもらっている。彼の魂は星海に還り、命の循環に組み込まれている。しかしそのエーテルの一部は今もククルカくんを見守ってくれている。

そのことがわかっているから、その身をもって感じたはずだから、もうどんな形であれ、再会は望んでない気がする。彼の居場所は静かな星海の底であってほしい。生きているオルシュファンとこんな遊園地に来たら、大はしゃぎするところが見られて楽しかっただろうなとは思っているかも。

ハーデスに対してはもう漆黒終了時点で、彼の記憶は自分が背負っていくから、ゆっくり眠ってくれと思っていそう。

これはあくまで「ククルカくん」に対するわたしの解釈なので、まったく別のキャラクターをつくってもう一度新生からやって黄金まできたら、また違う解釈になるかもしれない。

ラハくんの感じ方は健全だなあ。第八霊災後の原初世界のことも、滅びかけた第一世界のことも「覚えている」ラハくんが、今もこんなふうに考えていることがわかって安心した。

本人を目の前にして「生きていてほしい」という願いのために費やしたあれこれを語ってくれるから、どんな顔して聞けばいいかわからなかったけど。

 

 

記憶幻想アレクサンドリア

漆黒最後のIDでは滅びゆくアーモロートを駆け抜け、暁月最後のIDでは滅びゆく星々を駆け抜け、黄金最後のIDでは滅びゆくアレクサンドリアを駆け抜ける。世界、滅びすぎである。まあそもそも霊災を前提とした世界観だしな。

今回のは滅びを中から見た人のナレーション(ナレーションではない)を聞きながらの進行だったから、IDアーモロートに近い感じはした。

FF9で走り回ったあの街並みに似た景色が崩壊していくのを見るのは、また別次元の苦しみであった。14チーム、人の心がない。

前回アレクサンドリアの年表をまとめていたおかげで、戦闘をしながらでも話が頭に入ってきた。1ボスで死にまくったのが悲しかったけどな!

6.0時代のエキルレでレムナントを周回するのは精神的に結構キツかったわけだが、今回もキツそう(5.0時代はまだヒカセンではなかった)。でもレムナントのセリフを覚えるほど周回したかどうかは、その後のオミクロンデイリーの面白さや彼らのキャラクターへの思い入れに間違いなく影響していた。今回もまたそういう仕掛けがあったりするのかなあ。

 

 

スフェーンについて

 

わたしはそもそもオリジナルと永久人は別の存在だと思っているが、スフェーンについてはとりわけ別人だと思っている。

あの人間味のまったくないキャラクター、「国民を家族のように愛している」などの同じキーワードを繰り返す様子は、「このような条件下ではこのような反応を返す」「このような基本方針のもとで行動する」というプログラムを見ているようだった。というか、実際にプログラムで動く人工知能だもんね。黄金後半は人工知能の暴走ストーリーでもある

ちゃんと「別人」であるという自覚がある

何よりもあの一定のテンポを保つ話し方、めちゃくちゃ人工知能っぽい。というかSiriさんぽい。あのボイスのディレクションはナイス。

おそらくスフェーンの記憶は断片的にしか回収・保存できず、再現できた部分を繋ぎ合わせてできたのが我々の知る彼女なのではないだろうか。その「繋ぎ合わせ」部分は、技術者たちが「ぼくのかんがえたさいきょうの国王」みたいな都合のいいイメージで仕上げたに違いない。

人工知能の暴走ストーリー」自体は割とある話だけど、それと「ヨーロッパによるアメリカ大陸侵略ストーリー」とかけあわせる采配は、面白いアレンジである。ヨーロッパ側の侵略を文明の暴走と捉えている感じなのかな。

このセリフを蘇生マクロにしている人を見て腹がよじれるほど笑った

本当に最悪のセリフで心が洗われるヴィラン愛好家並感)。

まもなく命が提供されます!(ほかの人の命を奪ってあなたにあげるよ!)

まあでも、我々も普通に生きているだけでほかの命を奪い続けていることにはかわりないしな。「食事」とどう違うの? と言われたら、人の命かどうかの違いでしかないようにも思う。もちろんそこが超巨大な違いではあるのだけど。

わたしの解釈に従えば、当然これは変わっていたはず。だってオリジナルと今のスフェーンは別物だもの。

オリジナルのスフェーンならそもそも、ここまで持続不可能な、SDGsに反しまくったシステムの構築は避けるんじゃないかな。でも彼女の人格の再現を試みて生み出された人工知能は自己否定的な発想をしないような設定とかにして、このシステムの停止や否定はできないようにプログラムされていたのではないかと推測する。

本人に直接会ったことはないから(IDアレクサンドリアで見たのも「再現」でしかないし)全部想像でしかないけどね。

 

ちなみにエターナルクイーン討滅戦にあたっては、パーティ募集で下限申請してみた。そろそろCFで行くと零式装備を抱えた猛者たちをアゼムパワーで召喚してしまい、セリフやギミックを最後まで見ることなく終戦してしまいそうだったので。

案の定わやくそになってセリフをちゃんと聞く余裕はなかったが、わたし以外もわやくそになっていたので安心した。暁月の終焉戦では涙で前が見えないデバフ状態のまま隕石で死にまくったのだけど、今回はあの隕石ほど死にまくるギミックはなかったかも。タンクさんが熟練の方で、いい感じにピクミンさせてもらったのが大きかった。極が実装されたらいつかチャレンジしたいな。

戦闘中、ラマチが乱入してきたときは「ああやっぱりな」と思った。結局スフェーンは「ククルカくんの敵」ではなくラマチの対になる存在として用意されたキャラだ。こうなるのも必然というもの。

しかし8人パーティに乱入するラマチを見て、ゼノスの奥ゆかしさをしみじみと感じてしまった。「俺は友の床でいい」だなんて、マジ謙虚。ゼノスだって王子様だったのに。

 

このエリア、「次元黄道」っていうのね。アゼムの召喚術でエオルゼア外にいる友を召喚してログインしてもらい、FCメンバーリストからパーティに誘おうとして、自分のいるエリア名に気づいた。

たぶん今回のパッチタイトルは「黄金」にするか「黄道」にするか、クリエイティブスタジオ3でも議論があったのではないかなーと想像していたのだけど(妹は漆黒時代から「次のパッチタイトルは『黄道』ではないか」と言っていたものである)、ここに「黄道」をもってきていたんだな。

 

 

やっぱりアゼムじゃねーか!!!!!!!!!!

で、この話がどこに向かうのかというと。

この瞬間クソデカボイスで「おい!!!!」って叫んだからね

やっぱりアゼムの仕業じゃねーか!!!!!!!!!!!

やっぱりそういう話になるのね!!!!!!!

直前にアゼムマークを確認させる念入りな演出である。

アゼムマーク、「日」という漢字のもとになった象形文字っぽい。やはり太陽属性。

やっぱり「世界を繋ぐ力」はアゼム由来のものだったのか。「鍵」もアゼム本人がつくったのだろうか。アゼムのクリスタルに「鍵」が反応しているように見えた。

黄金は最初から最後までずっと「ラマチの物語」だったけど、ここからいよいよククルカくんの物語になっていくのかな!

 

ヴェーネス/ハイデリンが世界を割ったとき、アゼムはヴェーネス派にはつかなかった。最後までどこで何をしていたのか、わたしは暁月でそこをいちばん知りたかったのだけど、結局そこは語られなかった。暁月で語られなかったということは「あとはプレイヤーのご想像におまかせします」ということかと思っていたのだけど、この先何かの答えが出るのだろうか。

ハイデリンが世界を割り、アゼムは世界を繋ぐ? 次元圧壊とはまた別の方法で?

「鍵」の機能は世界を一時的に「繋ぐ」だけのもので、世界統合とは別物……と思ったけど、原初世界にアレクサンドリアが出現してしまったしなあ。いやでもこれは次元圧壊で起こる現象とはまた全然違うよね? 次元圧壊で起こるのは、消滅した世界のエーテルを原初世界が取り込む事態だよね?

次元圧壊が起こると原初世界も霊災まっしぐらで大変なことになっているだろうけど、鏡像世界がそのまま転移してくるとか、これまではなかったこと……でいいのかな? 霊災って地形が変わるレベルの災害だから、実はこれまでにも転移してきた土地があったり?

あとアレクサンドリアの世界(いったい第何世界なんだよ!)で霊災レベルの災害があったにもかかわらず、原初世界に統合されなかったのは結局なぜだったんだろう。それも「鍵」のおかげということでいいのかな? もしそうなら、「鍵」の機能は「繋ぐ力」だけではなさそうだけど。

まさかアロアロ島のララちゃんたちがクルルのご先祖だったとはなあ。それだとやっぱり現代の原初世界人とは魂の濃さが違っていそうだけど、どうなってるんだろ。ここはあんまりつっこまない方がいいところ? これから別の鏡像世界への冒険も展開するとなると、魂が濃い方が「能力が高い」みたいなヒエラルキー社会はつくってほしくないしな。

「鍵」を使えるのはアゼムの魂を継いだ者だけというわけではなさそう。ゾラージャもクルルの両親も使っていたし。

 

最後の最後に出てきたアゼムマークひとつでテンション爆上がりである。

アシエンたちは「鍵」の存在を知っていたのだろうか? アシエンの目的にとってもものっすごいキーアイテムだと思うのだけど。というかアゼムが「繋ぐ力」を持っているなら、真っ先に探して利用しそうなものだけど。

どうなんですかアゼムの親友代表エメトセルクさん!!! 次元圧壊には利用できそうになくてスルーしてたんですか!!!(星海にメガホンを向けながら)

いずれにしてもこの世界の根幹を揺るがしかねない超重要なアイテムを、当然のようにポケットにしまって帰るククルカくんである。エオルゼア十二神に見せて見解を聞きたかったけど、もういないんだよなあ……。あっ、月の監視者さんならどうだろう?(今思い立って月に行ってきたけど、ヴェーネスとのエモい思い出を話してくれただけだった)オシュオンがふらっと通りかかったりしないかなあ。

結局この話、「アゼムの『鍵』を光の戦士が受け継いで、これから別の鏡像世界に旅立てるようになります!」という展開へのつなぎだったってことかな。壮大な物語のための壮大なプロローグだ。

でも7.3までこの話がどう展開していくのか読めない。この先、いったいどんな討滅戦がありえるんだろ? まあ今回のように「親方! 空から敵の飛空艇が!」みたいな急展開はいつだってありえるしな……(何回もやるものでもないとは思うが)。

 

そういうわけで、「黄金のレガシー」クリア!!

大変楽しませてもらったし、この先がすごく楽しみだ。

まだワチュメキメキもロールクエストも途中だし、アルカディア再開のおしらせも見たし、ピクトマンサーもヴァイパーも未解放だし、やることはたくさんある。

 

最後に。

先日ブログを読んでくれた方がククルカくんに(ゲームの中で)声をかけてくださった。ブログで推しの解釈について力説していたら、推しの声優さんご本人から「演技の参考にする」とコメントをいただいたときも「そんなことってある!?」とびっくりしたものだが、それに匹敵するくらい驚いたし嬉しかった。

わたしにとってはまさに「こういうこと」こそが、わたしが「生きた証」である。

わたしが残した文章を誰かが読んでくれたこと。それが誰かの心に何らかの影響を与えたこと。誰かの記憶のひとかけらに残ること。それは、文章を「書いた」だけでは起こらない、奇跡にも近い作用だ。それを「生きた証」と呼ばずして何と呼ぶのか。

ブログは基本的には自分のために書いているのだけど(今読んでも、8年前に書いたこのブログの「はじめに」は我ながら実にわたしらしい)、それを誰かに読んでもらえるということには、まったく別の歓びがある。そして「読んだよ!」とか「面白かったよ!」とかのリアクションがもらえることは、またさらに別の大きな歓びである。

わたしは第一にわたし自身が何を見て、どこまで聞いて、感じて、考えられるようになるのかに興味がある。だから「書く」ということはこれからも続けていくだろう。

でもわたしが書いてきたものそれ自体だけでなく、読んだ人の記憶に何らかの形で残るということが、わたしの「生きた証」になるのだと、「黄金のレガシー」のシナリオを通じて改めて気づかされた。そういう意味でも、書くことはこれからも続けていきたいものである。

ここまで読んでくれた方、今日初めてこのブログに来た方も、いつも読んでくれている方も、どうもありがとう。

 

 

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