なぜ面白いのか

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存分に、愉しかったよ「ファイナルファンタジー14暁月のフィナーレ」クリア後感想

この記事にはFF14「暁月のフィナーレ」エンディングまでのネタバレが含まれます。

 

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ついに「暁月のフィナーレ」がフィナーレを迎えた。

ここまでククルカくんとわたしが旅をしてきたそのすべてが身を結ぶ、素晴らしいフィナーレだった。

クリアした直後はわたしもククルカくんも満身創痍すぎてよろよろとログアウトしフトーンヴィジルにこもってしまったが、とにかくなんとか言語機能が回復してきたのを見計らって感想を書いてみる。

しかし漆黒のときも、いろいろなことを整理しながら感想を書けるようになったのは半年以上たった後だった。今はまだあれもこれも整理されていないし、まだわかっていない部分もある。とはいえ、クリア直後の新鮮な感想を書けるのは今だけだ。何かは書き残しておきたい。

 

以下、「暁月のフィナーレ」のフィナーレまでのネタバレあり!!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

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漆黒を「おやすみ」「おはよう」の物語とするなら、
暁月は「いってらっしゃい」「おかえりなさい」の物語だった

 

 

 

 

 

 

 

 

ウルティマ・トゥーレでの歩み

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このエリアは仲間を犠牲にしながら進まなければならないと悟ったときの絶望感ときたら。あの最後の平和な時間で未来のことを語っていたのはやはり死亡フラグだったのか? 前回記事に載せた、シャーレアンで撮った最後の記念撮影が遺影になってしまうのか? とものすごく嘆いた。

事前にアゼムのクリスタルをもらっていたから、あのクリスタルで再度魂に形を与えられる? とも思ったのだが、ヤ・シュトラに「それをやったらこの世界で生存できなくなるし移動もできなくなる」と釘を刺されてしまったし。

彼らの歩んできた道がデュナミスを動かしていく過程ひとつひとつに涙した。蒼天のイシュガルド」の真のエンディングはここにあったのだ……(3日ぶりn回目)。

ドガルズオルムの母星とオメガの母星が登場したのには驚いた。こんな重要なところでレイドコンテンツの続きをお出しするか!?

アーテリスに生きる竜たちの高潔さを知っているだけに、この地で見る無気力な竜たちの姿はつらい。しかしわたしたちは竜詩戦争をとおして、竜たちも間違いを犯すし負の感情に突き動かされることも知っている。その延長にあるのが今の彼らだという気もする。

イーア族の絶望については後で言及することにして。

オミクロンベースで示される、肉体と精神の連続性の問題は非常に難しい。ここは肉体と記憶と魂をあれこれいじってきたグ・ラハが説得にあたり、それはそれでとてもよかったのだが、わたしとしては今のオメガの見解も聞いてみたい。今のオメガなら、あのマスターにどんな答えを示すだろうか。あるいは、第八霊災後の世界でガーロンド・アイアンワークス社を見守ってきたオメガなら?

グ・ラハとの「約束」はいつかサブクエストでもいいから果たされるといいなあ。ヒカセンは初めてイシュガルドを訪れた頃、オルシュファンから「事態が落ち着いたらゆっくり皇都を案内する」と言われた。だけどその約束は果たされなかった。「イシュガルドを案内する」という約束、今度こそ果たされてほしいんだ。今のわたしはイシュガルドを案内できるくらいになっているから。

 

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これはねー、この「秘策」はずるいよ……。チート中のチートじゃん……。

でもこんな最果ての絶望の世界で、かつて滅んだ文明の数々を見せられて、それでも「友の幸せ」を本気で確信できるのは、彼らの心の強さであり、彼らとククルカくんがこれまで育んできた信頼関係の強さなんだよね。

このときのデュナミスが、最後の戦いの後にククルカくんを救うことになったのかもしれない。少なくともその要因のひとつにはなっていたんじゃないかな。

 

 

最後の創造魔法

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ですよねー!!!!

満を持してというべきか、待ちに待ったというべきか、最後の最後に出てきてくれた彼ら。

なるほど、ヴェーネスの言った「喚ばないもの」とはそういう意味だったか。あの時点でわたしはふたりを喚ぶ気満々だったから(そもそも5.3討滅戦でもすでに喚んでいたし)「それ以外に誰か来てくれる可能性のある人っている? ひょっとしてゼノス??? いやさすがにヒカセンはあいつを喚ばなくね?」なんて考えていたのだが。「本当は暁のみんなを喚びたい場面だが、それをすることができないから」こその「喚ばないもの」ということか。

 

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このときのカメラワークが笑っちゃうほどかっこよかった

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ここでエメトセルクが「私たち」と口にしたことが、彼の旅路の結末なのだ。

「過去に生きたもの」と「今を生きるもの」をまとめて「私たち」と言ってくれた。

古代人も現生人類も、ともに生を望み明日を願うものだと認めてくれた。

だからこそ託してくれたんだよね。「主役を譲って」くれたんだよね(ちょいちょいお芝居用語が入るのが彼らしくてよい)。

 

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もはや膨大なエーテルを持たない、魂だけの存在になった彼らが、この世界に満ちる暁のみんなの「想い」を借りて創造魔法を織りなす。ククルカくんがその魔法に「形」を与える。最後の共同作業がもたらしたのは希望の花だった。

このときふたりが行使したのは、正確には「創造魔法」ではなかったのではないか。彼らの創造魔法はエーテルを操作して行うものだったはず。でもウルティマ・トゥーレはエーテルではなくデュナミスが構成する世界。そこで古代で行われていた「創造魔法」をそのまま使うことができるだろうか? そもそもエーテルどころか肉体も持たない彼らが??

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このセリフから察するに、彼らがここでエネルギーにしたのはエーテルではなく「デュナミス」だったのではないか

デュナミスを認識できず、エルピスの花を染めることもできなかった彼らが、デュナミスを駆使する。ここで描かれていたのはそういう奇跡だったんじゃないのか。

今のエメトセルクは、絶望を知り悲しみを知り、同胞の喪失を悼むことができるようになった彼は、エルピスの花を染められるようになっているんじゃないのか

 

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この選択肢には悲鳴をあげた。

漆黒で突きつけられた「お前の冒険はここで終わりだ」を、ここで彼女に示すことになるのか……!

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ここで「砕けぬ思い」か……! ハーデス討滅戦の歌詞、この前公開されてたね……!

jp.finalfantasyxiv.com

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最後の最後に彼が告げた言葉は、クリアした後もじわじわとわたしにしみこんでくる。

これは漆黒で彼が告げた「お前の冒険はここで終わりだ」に対するククルカくんの「冒険はどこまでだって続いていく Our journey will never end」……に対する彼の返答なのだろう。

考えてみると、かつてアゼムとともにたくさんの冒険をして、厭だ厭だと言いつつもそれを楽しんできたであろうエメトセルクが、アゼムの魂を持つ者に対して「お前の冒険はここで終わりだ」と告げるのはどれほど苦しかっただろうか。

今のエメトセルクは、アゼムの魂を持つ者が「もうだめかもしれない」と思ったときに、まだ見ぬ冒険の可能性こそがその背を押すだろうことを確信している。あの絶望的な状況で「冒険はどこまでだって続いていく」と言い切ったククルカくんにとって、前へと進むための最大の動機となりうるものは「さらなる冒険の可能性」だとわかっていて、あんなことを言ったのだ。

そしてこの場面からは、エメトセルクもまた、分かたれた世界を「冒険」していたことがわかる。

意識的にか無意識のうちにか、アゼムの行動をなぞっていた部分はあったのではないか。その行為がソル帝という「英雄」をつくることになったのではないか。

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ザハン導入ムービーで流れた「過去のラザハン」にいた黒フードのミコッテ、やっぱり冒険していた頃のエメトセルクだったのでは!?

終わりにたどり着いた彼らがまた生まれ変わったら、もう一度三人で仲良くやれるといいよね。姿かたちは変わっていても、過去の記憶がなくなっていても、魂の性質は似ているような気がするから。

ヤ・シュトラも言っていたとおりあれはエメトセルクからの「課題」でもあるが、今後の拡張の予告だったりするんだろうか。楽しみだな……!

 

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この指摘はすごく大事だった。

古代には「使い魔」としか認識されなかった、誰からも「人」扱いされなかったククルカくんが、水底のアーモロートでは「人の子ども」だと思われていたのは、あの時点でのエメトセルクの認識の変化だった。そして今のエメトセルクは古代人と現生人類をまとめて「私たち」と言ってくれている。

やっぱりそういう結末なんだろうなあ。

 

 

終焉を謳うもの

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最終決戦に突然乱入してきたドラゴンにはびっくりした。一瞬ミドガルズオルムかと思ったが、神龍かよ!! このタイミングでのゼノス乱入で、もはやちょっと笑ってしまった。お前どんだけ再戦したいんだよ!! アーテリスでおとなしく待ってるなどという選択肢はなかったんだな! わかった!!

だがせっかく駆けつけたゼノスには大変申し訳ないが、ククルカくんはここでテレポ! クラフターがぎりぎりカンストしていなかったため、最後のIDで拾ったレベル90の装備にマテリアを挿すことができなかったのだ。さすがにCFで行くのにマテリア穴が空きっぱなしな状態は避けたい。やってきたのは第二の故郷、イシュガルド。ここでマテリア屋さんにお願いして装備を整え、わたしは最後の戦いのためにアゼムのクリスタルに祈った(という形のCF申請をした)。

シャキ待ちの数分間をどう過ごすか、少し考えた。

最後の戦いが終わった後はどこに移動しているかわからない。ここで自宅に帰ったり移動したりしても、エンディング後に再移動が必要になるだろう。ならば。

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はい、こちらにお邪魔しました。

最後の戦いの前にちょっと挨拶していこうと思って。そしたらエドモンさんに「暖炉で暖まっていくといい」と言われたので。懐かしい人たちに挨拶し、(心の中で)最近のエマネランの活躍について報告し、ここでオルシュファンと過ごした日々のことを想った。それもきっと、最後の戦いの力になると思ったから。

ゼノスの気持ちをバキバキにへし折った気はしているが(いやまああいつ前向きだからあんまり気にしないかな)、とてもいい時間だった。終わりの直前にここに来られてよかった。

 

終焉を謳うもの戦は、だいぶ死んだ気がする。ヒーラーなのに蘇生されてばかりでまことに申し訳ない。ついていくのに必死すぎて細部の記憶が全然ないのも申し訳ない。もちろんスクショも一枚もない(またか)。

アーカーシャとデュナミスの話を聞いてから、誰かがLBするたびに「ああ、今デュナミスが……」と思うようになってしまった。またヒーラーでLB3する機会があるといいな!(壊滅寸前を望むヒーラー)

 

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メーティオンはちゃんとわかってたんだな。ヘルメスが「優しい答え」を望んでいたことを。他人の思いを自分のもののように感じられる彼女なのだから、わかっていないわけがないか。

最後に「これじゃない」と感じたアモンも、本当に望むものを自覚できていたら別の道があったかもしれない。

 

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ここは声優さんの熱演にもらい泣きした。

暁月ではちらほらと声優さんの呼吸音をカットせずにそのまま残している部分があって(たぶん普通はカット処理するよね?)、それがすっっっごくよかった。特にこのシーン。

多様性こそが生命の強さ。そういうことよね、メーティオン。

滅んでいった種族の多くは「平等」や「均一性」を求めていた。「みんなが幸せになる社会」を求めていた。残念だけど、やっぱりそんな社会はないよね。誰かにとっての喜びは、いつだって別の誰かにとっての悲しみになりうる。誰も不満を言わない社会は、誰かが不満を抑え込まれている社会だ。そうでなければ、多様性が完全に失われた社会だ。

 

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青い鳥はやっぱり『青い鳥』だった。

メーテルリンクの『青い鳥』はまさに、探していた幸せはすぐそばにあったことを教える童話である。

とはいえここでヒカセンも言ったように、それは「最初からあったわけじゃない」。

ここに至るまでにはたくさんの犠牲があった。

古代人の犠牲と、今まで滅んできた多くの文明の犠牲と、今までの旅路で見てきた悲劇と。そんな犠牲も、悲劇も、すべてがここに至るために必要だった。

なんだか仏教の一切皆苦の訓えを思い出してしまう。というかハイデリンの訓えってまさにこの思想なんじゃないかな。イデア論からずいぶん遠くに来たものだ。

 

 

ゼノス・ヴェトル・ガルヴァス

めちゃくちゃ感動のシーンではあったのだが、何もかも「これ背後でゼノスがワクワクしながら待機してるよね!?」と気が気ではなかった。これ「ありがと! またね!」と言って帰れる雰囲気じゃないよね!? と。

いよいよ無事に「ラグナロク」に戻れる算段までついたところで、再戦の申し込みきちゃったよ!!! すまん!! もう帰りたいんだ!!!!!!! もうハッピーエンドってことじゃだめですか!!!!??!?!?!

プレイヤーのわたしとしてはその気持ちでいっぱいだったのだが、彼のこの言葉に結局足を止めることになってしまった。

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あー。

「皇太子」と「英雄」ではなく「ヴェトル」と「冒険者」の立場として、一切の利害なくただ勝負しようってこと……。

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そんなふうに言われたらさあ、これまでの冒険を楽しんで、肯定して、血肉にしてきた「わたし」が断れるわけないじゃん。

ものっすごいビクビクしながら初めて極コンテンツに挑んで、何回も死にながらみんなで協力してクリアできたときの喜びの記憶もまだ新しい。極ウォーリア・オブ・ライト討滅戦で壊滅しかけたパーティで、粘って粘ってLBゲージがたまるのを待ってLB3で立て直したときの高揚なんて忘れられない(しかもその一戦で笛が出てロット勝ちしたんだよ……)。

わたしもエスティニアンやエメトセルクと勝負できるくらいちょろいやつだと思うのだが、結局しばらく悩んだ末、わたしはあの三択で「……まったくそのとおりだ」を選んでしまった。直後に見せたククルカくんのあの不敵な笑みよ(このページのいちばん上に貼ったやつ)。いや、この返事を選んでよかったなと思った。

戦闘自体は割とわかりやすくて、わたしでも一発でクリアできるレベルだった。「避けられるか?」みたいなことを言いだしたのを聞いて嫌な予感がしてサッと離れたら前方範囲攻撃がきたので、わたしこのゲームに慣れたんだなあ! と思った。

 

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最終的に殴り合いになったのは笑ってしまった。

いや、わかるんだよ。何も持たないただの「ゼノス」と何の立場もしがらみも戦う理由もない「ククルカくん」が決着をつけるのに、いちばんふさわしい終わり方だって。

それから漆黒の最後、アルバートの斧で決着をつける場面の暁月バージョンにあたるのがこれだということもわかる。最終的に決着をつける場面の共通のムービーが必要になるなら、ジョブが何であったとしても大丈夫なように作らないといけないわけで。

でもクソデカゼノスとララフェルの白魔道士(しかもAF着てる)が本気の殴り合いをする場面は、絵的に面白すぎた。ゼノス、相当かがまないといけないな! ククルカくんはさっきまで杖でのオートアタックで25ダメージくらいしか出てなかったやんか!! 素手でゼノスをぶっとばせる腕力があるなら、杖でぶんなぐったら場外ホームラン狙えるでしょ。モンクで来てたらもっと盛り上がったのかもしれんな……。

いや、たぶんこれこそがデュナミスパンチなのだ。普段は使えないLB3級のパワーがあるのだ、たぶん。

 

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最後の最後にヴェーネスと同じことをきいてくるゼノス……。

ゼノスも古代人の誰かの生まれ変わりだったりするのかとか、ゼノスのヒカセンに対する執着はエメトセルクのアゼムに対する執着の影響が多少なりともあったりするのかとか考えたこともあった。でも、わたしのなかではそれはそういうことではなかった、ことになった。ゼノスはただのゼノスでいい。誰か別の人の影響とかではなく、彼はただ彼として光の戦士の前に立ち、彼自身のために戦って、命を燃やして、そして敗れた。

それでいいのだと思う。

ククルカくんのところにはあの転移装置が届き、彼を待つ人のもとで救われたけれど、ゼノスの方は救う者も待つ者もいなかった。ククルカくんだけが消えたあの世界に残るゼノスの体は、誰に看取られることも葬られることもなく、ただ朽ちていく。でも彼の魂がウルティマ・トゥーレにいた亡者たちのようになることはない。彼は存分に愉しんで、満たされて死んでいったのだろうから。

結局、友への執念が世界を救う一端を担うことになったんだなあ。

「終焉を謳うもの」を前にして「なんでまだ終わってないの?」発言は笑ってしまったが(ゼノスの出番のたびに笑ってしまって涙が引っ込むプレイヤー)、自分が戦いたい一心だったんだもんね。

もしかしたらどこかで少しは、「自分が愉しませてもらった分のお礼」の気持ちがあったのかもしれない。ククルカくんに対するお礼だけではなく、世界に対するお礼の気持ちが。感謝の気持ちを持っているとかそういう意味ではなくて、なんだろうな、場を用意してくれたこと、自分が命を燃やせる相手が存在する世界であったこと、精一杯燃やせるだけの生を与えられたこと、そういうことに対して形だけでも礼はしておくみたいな。その結果として世界が救われた、みたいな。なんかゼノスの思考の規模ってそういう感じな気がする。

 

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みんな、心配かけてごめんね。

これグラフィックに反映されてないだけで、相当ボロボロだったんだろうな。相手の武器は鎌だったし。

ククルカくんはゼノスと戦ってきたことを彼らにどれくらい話すだろうか。まあ話さないわけにはいかないか。メーティオンが船まで来たということは、そちらの戦いは終了していたはずだと彼らも知っていたわけで。それ以外のトラブルが発生したということは話さなければならないだろう。シャーレアンに帰ったらクルルからゼノスがどうなったか聞かれるのだろうし。

あの場で何があったのか、どんな言葉をかわしたのかについての詳細は、ククルカくんだけの秘密にしておきたいところはある。

 

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エンディングの最後に出たこれで、大泣きした。

ありがとう、本当に。

この物語の主人公はほかの誰でもない、彼のものだよね。本当の意味でそう思える、素晴らしいエンディングだった。

このあとの一枚絵でもまた大泣きしたのだが、これはここには貼らないでおく。

描かれているのは13人。

14人目が光の戦士。

そういうことだよね。

 

 

スタッフロール後

スタッフロール後の石の家での一連のシーンもどれもこれも語りたいことだらけなのだが、これを書いている間にメンテが終わったというしらせが入った。予定より早いやんけ!!!!!! FF14におけるメンテ終了時間変更のおしらせは、大体予定が早まったおしらせなんだよ1!!!!! いつも迅速なお仕事をありがとうございます!!!!!!!!!!!!

もはやこの記事は1万字になろうとしているし、このへんでいったん切り上げようと思う(この下に続く文章は、この記事を書き始めていちばん最初に書いた部分である)。

が、これだけは言っておきたい。

もしスタッフロール後の石の家でのイベントで、クエストマーク対象者に一回ずつしか話しかけていない人がこれを読んでいたら、もう一回イベント見直してきて!!!!!(あれ? あのシーンって紀行録で見られる? つよくてニューゲームする必要がある?)

一回話しかけてクエストマークが消えた後、もう一度話しかけると別のセリフを言ってくれるんだよ!! それがすっごく大事なこと言ってるの!!!

ウリエンジェのだけ貼っておく。

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やっぱりゼノスと戦ってた話自体はしてるんだな!

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転移装置が届いた理由は、プレイヤーそれぞれが自分の納得いくものを用意すればいいということなんだろうな。

わたしの中では、アルフィノとアリゼーが祈ってくれた「幸せな結末」がデュナミスを動かしてくれたことが理由のひとつ、あともうひとつの理由は、結末が気になって一応チラチラ見ていた誰かさんが指を鳴らしてくれたことになっている。

人によってはオルシュファンやミンフィリアの祈りを理由にするかもしれないし、シャーレアンに集結した誰かの祈りが届いたのかもしれないし、ゼノスが「勝者」は生きるべしと祈った、みたいな解釈だって可能だ。

それだけ光の戦士はたくさんの人の祈りを背負ってあの場所に立っていたのだから。

 

 

なぜ「なぜ面白いのか」を考えるのか

最後に(というかこの部分を最初に書いたのだけど)。

かつて学生だった頃、日々多くの作品に触れて、いろいろな人と語り合い、たくさんの刺激を受けて、「昨日の自分と今日の自分では見えている世界が全然違う」みたいな感覚がしばしばあった。さまざまなものを聞いて、感じて、考えて、今までの自分が考えたことのなかったことを考えられるようになり、感じたことのなかった感情を獲得していく、そういう自分の変化がたまらなく面白かった。

しかし同時に、自分の時間は有限であることを意識して恐ろしく感じるようにもなった。わたしはこの世界に存在するすべての作品を閲覧することはできない。わたしの変化は有限であり、考えられることも感じることも有限である。ある意味で、イーア族の絶望に近いものを(それよりだいぶレベルは低いけれども)わたしも感じていた。

有限である生を受け入れなければならない以上、わたしは「自分がどのようなものから刺激を受けやすいのか」「何に心を動かされる傾向があるのか」を考えるようになった。

それを知るには、まず己を知らなければならない。

自分はある作品をどのように受けとめるのか。それをどう解釈し、どう消化し、どう血肉とするのか。何を「イイ」と感じるのか。何を「面白い」と感じるのか。

それがわかるようになれば、自分が刺激を受けやすい、「面白い」作品に出会いやすくなれるのではないかと思った。

わたしが学生だったのはもう結構昔の話だが、以来ずっと変わらず考え続けている。このブログはわたしが触れたもののうちエンタメ分野に特化した場所だが、ここもその目的のために、ネタバレや字数制限を気にせず好きなように考えを言語化するための場所として始めたものである。

わたしにとって作品の感想を言語化するという行為は、それくらい切実な欲求によるものだ。その欲求は、ヤ・シュトラの感じる知への探求心というよりは、ゼノスの渇望に近いものかもしれない。あの最後の戦いに挑むとき、わたしはやっとゼノスの感情にリンクできた気がした。

有限な生の中で、自分が心から熱を注げるものに出会える人は一握りだ。ゼノスはそのうちのひとりだった。

わたしは今までの人生で何回か「これを超える作品にはこの先もう出会えないかもしれない」と感じることがあった。それは最大の賛辞であると同時に、やはりイーア族が感じたのに近い絶望でもある。

しかし面白いことに、わたしは今まで「何回か」この絶望を感じている。

つまり出会えているのだ。「もう出会えないかもしれない」と思った後にも、再び、心震わせる作品に。

「暁月のフィナーレ」をクリアしたわたしも、やはり過去のわたしと同じように「これを超える作品にはこの先もう出会えないかもしれない」と思った。でも同時に、今のわたしは「世界にはこんなに面白い作品がある」「探し続けていればきっとまた面白い作品に出会える」とも思えるようになっている。

それは「暁月よりも上の作品がある」という意味ではない。そんなふうに世界に希望が持てることこそ、暁月も含めたさまざまな作品からもらった最高の贈り物なのだ。それにもしかしたら、再び出会える面白い作品とは7.0以降の物語だったりするのかもしれない。

わたしの渇望はわたしが定命の者であるがゆえのものであり、きっとその渇望が「探し続ける」原動力になっている。聞いて、感じて、考えたい。それをやり続けたいと思えるのは、わたしの愛する世界が有限だからだ。

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作品の面白さには、その作品固有の力だけではなく、それを受けとめる側の状態も大きく影響される。わたしは暁月をクリアしたのが、これまでたくさんの作品を吸収してきた「今のわたし」でよかったと思っているし、この面白さを、わたしが何にどう心を動かされたのかを懸命に言語化したいと思っているし、言語化には限界があるとわかっていてもその努力を続けたいと思う。

いったいどう書けば「作品に対する最大級の賛辞」になるのか、わたしからの最大級の感謝を伝えられるのかだいぶ悩んだのだが、今のわたしが書ける限界はこれだ。

今のFF14はわたしにとってもはや、「行けなかった旅行のかわり」ではない。

この世界を愛し、この世界に生きる者を愛し、これからも旅を続けたいと感じる、もうひとつの大切な場所である。

出会えてよかった。

この世界を創ってくれたすべての人たちに、心からの感謝を。

 

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