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なぜ面白いのか

見たもの触れたものを保存しておく場所

「創作」における「対話」について

雑記

ここしばらく別方向にステータスを全振りしていたため、文章によるアウトプットをまったくしていなかった。また徐々に生活を戻していこうと思う。

というわけで、別方向に振り切っていたときに考えたことなどを少し書き留めておくことにする。

 

生まれて初めての経験をした。

ある作品が誕生する過程に立ち会ったのだ。

誕生する瞬間だけに立ち会ったのではない。過程に立ち会った。

1から10まで立ち会ったのではない。完成を10とするならば、6、とんで9~10に立ち会ったくらいだ。

それでも凄い経験だった。

ひょっとするとこれまでのわたしの芸術観を揺り動かしてしまうくらいに。

 

感じたことすべてを言語化できないのがもどかしい。

できるだけ残しておきたい気持ちはある。後の自分のために。

だが、言語化できない部分にこそ本質があるということもわかっている。

言語化できない部分が濁流のように溢れて、言葉として残るのはどうせほんの少しだ。

米をといだ後にとぎ汁を流すようなイメージ(しかも五合炊きの炊飯器に大して米は半合程度だ)が繰り返し頭の中に流れているのだが、その場合は普通、米が本体でとぎ汁は飲まないのであれの逆である(なんと意味のない比喩だろうか)。

 

ここにわたしが書き残せることは、創作行為における「対話」の重要性についてだ。

創作とは、第一に自分の対話の記録であろうというのがわたしの考えだ。

どんな媒体の作品であったとしても、多かれ少なかれ自分との対話を晒すものだろう。

このブログもまた、自分との対話を主目的として始めたものだ(ここでやっていることはいわゆる「創作」とは別種のものではあるが)。

 

しかし、完全に自分と「だけ」対話して生まれる作品というものは非常に少ない。

「自画像」などはそれに近いものかもしれないが、多くの芸術作品の場合、外部から何らかの刺激を受けることで自己との対話が喚起されるのではなかろうか。

たとえば友人や家族から。たとえば見知らぬ誰かから。たとえば自然から。たとえば宗教的概念から。歴史から。時事問題から。他者の作品から。

そういったものから刺激を受けることは、その対象との「対話」にほかならない。

 

わたしはそこを見落としていたのではないだろうか。

自分との対話は楽しい。できることならずっと続けていたいくらいに。

そしてそこから何かを生み出すことができたときは喜びを感じる。

だが、自分との対話はいつだって別の何かによって喚起されてきたのではなかったか。

わたしはわたしだけの力でわたし自身に刺激を与え続けることはできない。

(おそらく宗教家や数学者などにはそれが可能な人もいるだろうが、今はおいておく)

たとえば友人や家族から。たとえば見知らぬ誰かから。たとえば自然から。たとえば宗教的概念から。歴史から、時事問題から、他者の作品から、刺激をもらうことで、そういったものと「対話」することで、わたしはわたし自身と新しい対話を始めることができる。

 

ちなみにこのブログも他者の作品から受けた刺激によって始まる自分との対話を書き留めているわけで、同時に他者の作品との「対話」の側面もある。

さらにまたこの文を読む誰かとの「対話」にもなっている。ここに「言葉」を残していく人はあまりいないが、それでも文を「公開」することが、その結果誰かの目に触れることが、ある種の「対話」であろう。

そうでなければ「できるだけ読みやすく」などと考えることもなく、今よりいっそうわけのわからない文を書き散らしているだろう。

 

当たり前といえば当たり前の話だ。

芸術は社会性を持つだとか、ついこの前も書いたような気がする。

一人で完結する創作活動なんてない以上、きっとほとんどの作品は自分との対話であり、またほかの誰か(あるいは何か)との対話なのだ。

そんなことはわかっていたつもりだったが、わたしが思っていた以上のものだった。というか、今までほぼわかってなかったも同然だった。今も到底わかっているとは思えない。ただしそのことを少しばかり、肌で感じることができた。

要するに今日言いたいのはそれだ。

 

わたしが思っていた以上に、作品をつくる過程に「対話」は重要なものだった。

ある場所で景色を見ること。

その地の空気を吸うこと。

方言を聞くこと。

食事をすること。

人の顔を見ること。声を聞くこと。

喜んだところ。困ったところ。楽しんでいるところ。悩んでいるところ。

強い気持ち。弱い気持ち。

ふと目にとまるポスターの写真。

街角の匂い。

きっとそのすべてが「対話」なのだ。

すべてが少しずつ刺激となって、さらなる自己との「対話」を導く。

それらがある手続きをとって結晶化されたとき、「作品」が生まれる。

 

わかっていたつもりだったけど、わかってなかった。

凄いものを見た。本当に凄いものを見た。

それはどんな創作論を読むよりも、圧倒的説得力をもってわたしに襲いかかってきた。

きっと一生忘れない。

積み上げられてきたものと巡り合ったもの、すべてに感謝して、今日はこれにておしまい。