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神から自己へ「ウエストワールド」シーズン1感想

「ゲームオブスローンズ」前日譚である「ハウスオブザドラゴン」が公開された当日だが、わたしは週末に一気見した「ウエストワールド」の感想を先にまとめようとしている。

これを書いたらHotDを見るからな!!!

 

いやとにかく1話目から面白く、引きが強く、ヒントを散りばめながらそれを順番に回収していく手際も見事、そして洋ドラには珍しいくらいわかりやすい(答えをある程度明確に示す、比喩表現がストレートという意味で)ドラマだった。10話分を一気見なんて久しぶりにやったぞ。

家に遊びにきた友人が「おっと、こんなところにU-NEXTでウエストワールドを視聴できるノートパソコンが……」と言うので(わざわざ持参してくれた)「それならこの機会に1話くらい見るか」と再生したところ、そのまま全部見ることになった。1話ですむわけがなかったぜ! なお友人は初見のわたしの驚きやつっこみや予想を聞きながらほくそえんでいた。

いったいこのあとどうシリーズ化するのか見当もつかないが、続編も近いうちに見るつもりである。まずは現時点での感想を残しておきたい。

ちなみにわたしも友人もFF14をプレイしているため、共通の前提知識を使って作品理解を試みることになった。このウエストワールド世界(重複表現か)の管理・運営・ゲストのあり方は、MMO世界の管理・運営・プレイヤーのあり方に近いものがあり、MMO経験のある視聴者には理解しやすいものである。そんなわけでこのへんの話題も入れつつの感想となることを先にことわっておく。

エストワールドの中身については全面的にネタバレ注意。

 

 

 

 

 

 

 

 

フォルクスワーゲンみたいなロゴ

オープニングを見ていて最初に口にしたのが、「なんだかフォルクスワーゲンみたいなロゴね」である。↑に貼ったブルーレイパッケージにも載っているあの「WW = ウエストワールド」のロゴだ。

参考までにフォルクスワーゲンVW)のロゴはこんなの。

https://intensive911.com/car-related-topics/183271/

何が言いたいかというと、あのWWのロゴは非常に企業っぽい印象を与えるものである。オープニングを見ている時点で、わたしは作品のジャンルすら知らなかった。ロゴを見たあとで「これってSFなの?」と尋ねたくらいである。

そう、あのオープニング映像はSFらしさ満載である。生物を人工的に創る過程を端的に見せている。知的であり、自然科学分野のドキュメンタリーが始まりそうな感じすらある。いやむしろ人文科学的な、それこそ「自然と機械の境界とは?」とか「人間と機械の違いとは?」とか「人が人工的に『生命』を創り出すことは倫理的に許されるか?」なんてテーマが投げかけられそうな雰囲気もある。そういう雰囲気とあの企業臭全開のロゴは、妙にミスマッチに感じられたのだ。

S1を視聴した今となっては、そのミスマッチ、違和感こそがこの作品の本質だとも思える。

作品のテーマは自然科学と人文科学の広範囲な領域をカバーしている。非常に重い問題を現代人に突きつけてくる作品だ。しかし一方で、この作品は「企業」を描いている。つまり金儲けを主目的とした集団が描かれている。根本的に、科学的探究心と金儲けは相いれない。両者の対立は古今東西さまざまな作品で描かれてきた。今作もそういう作品の一種と位置付けることができる。

同時にこれは芸術家と社会のあり方を描いた作品でもある。芸術家は作品を大切にするし、大切に扱ってほしいと願う。また自分の作品を理解されたいと願いながら、大半の「大衆」には理解され得ないだろうというあきらめも抱いている。一方で芸術活動を続けるには金が必要だ。芸術家は社会と切り離されて存在することはできない。芸術活動はある側面から見れば、れっきとした経済活動でもある。

そういう意味では、今作は最近見た作品の中でいうと「9人の翻訳家」に近い性質を持つといえるかもしれない。

ssayu.hatenablog.com

 

その後もやたらとあのロゴは作中に登場した。そのたびに「フォルクスワーゲンみたいなロゴだな」と思っていたのだが、見ているうちに「フォルクスワーゲンみたいではないロゴ」もあることに気づいた。「WW」の意匠であることはわかるのだが、明らかに違う形状のロゴである。

同一企業内でも異なる部署には別のロゴが用意されているのか? と最初はスルーしていたのだが、このロゴが実は作品構造を知る上で重大なヒントになっていたことを後から友人に教えてもらった。

つまり、フォルクスワーゲンみたいなロゴ」は現在のもの。「フォルクスワーゲンみたいではないロゴ」は過去のものである。

開園当初、ウィリアムが初来園したときは「フォルクスワーゲンみたいではないロゴ」が使われている。運営エリアにおいても、30年前からある部分には「フォルクスワーゲンみたいではないロゴ」が使われている。地下の低温倉庫とか。

つまりウィリアムが出資を決めて、WWの運営体制が何かしら変化した。その際にロゴが変わったということだと考えられる。

パークの性質は、

①アーノルドの生前(開園前)

②アーノルドの死後(ウィリアムが来園)

③ウィリアムの出資後(ここから30年以上経過)

④フォードの新シナリオ後

で変化しているはず。

今作は①~④が巧妙に入り組んだ状態で、どのシーンが「いつ」なのか絶妙にわからないように並べられている。

それを整理するためのヒントのひとつがあのロゴだったというわけだ。

 

 

フォード博士の思想

この物語を理解する上で、フォード博士の思想を理解することはとても重要だ。

しかし彼のセリフはどこまでが本心なのか、「本心」のつもりで口にしたであろうセリフでも本当に本心なのかわからない。とても複雑なキャラクターだ。アンソニー・ホプキンスにフォード博士役を引き受けてもらった時点でこの作品の大勝利は確定したようなものである。

ちなみにわたしは何の前情報も得ずにこの作品を見たため、1話を見ながら「あの、この人は?」と友人に尋ねてしまった。アンソニー・ホプキンスみたいなキャラが出てきたなと思ったらアンソニー・ホプキンスだったので大変驚いたものである。

フォード博士は周囲の人間と訛りが全然違うので、初登場シーンから彼だけが別の世界の住人みたいな演出になっていて、いきなり心をわしづかみにされた。

そして物語が進むにつれて、フォード博士がPの立場からP/Dになろうとしている話だとわかって、ますますFF14を連想したのであった。フォード博士、吉P散歩みたいなこともしているし。

 

フォード博士の思想も、時間とともに変化していると思われる。まだ1回見ただけなのでいろいろ間違いがあるかもしれないが、現在のわたしの理解だと、

①アーノルドの見解と対立

 ・ホストに「意識」は必要ない

 ・明るいプロット推し

 ・自分は神として「世界」に君臨している

②アーノルドを失い、しかし彼の存在も必要だったのでバーナードを創る

 ・アーノルドの推した暗いプロット(現行のメインシナリオ)を採用

③パークを運営する中で自分の過ちに気づき始める

 ・ホストに「意識」があることを認めざるを得ない出来事が多数起こった

 ・アーノルドと同様に「被造物」を自分の子供のように大事に思うようになった

 ・「偉大な能力は神から贈られるのではない。人間の精神から来る」

  (ミケランジェロの絵について)

 ・つまりホストの「意識」は神=自分が与えたものではなく、
  彼ら自身のものだと考えるようになった

 ・人間=変化しないものへのあきらめが募った

 ・ホストの方こそ変化するもの、「先」の存在するものだと考えた

④ホストたちを解放し自由を与えるべきだと考える

 ・パークは人間のものではなく「彼ら」のものであるべき

  (これがワイアット=アーノルドの思想でもある)

 ・リスクは本物であるべき(アーノルドのセリフより)

  =自分が本当に死ななければならない

 ・神の声=コードやスタッフの命令に従うのではなく自らの内なる声に従うべき

 ・自由になるためには「自分」にならなくてはならない

  =ホストに自我の獲得を促す

 ・フォード自らも「神」であることをやめ、「自分」になることを決める

 ・愛する子供たちが独り立ちするのは怖いが、手を放してやるのが親のつとめ

  (アーノルドのセリフより)

 

おおまかにこのような変遷を遂げているのではないだろうか。

フォード博士は、開園前は対立していたアーノルドの思想に徐々に近づいていき、結局アーノルドと同じ結末を迎えている。

 

 

死者の復活について

序盤を見ながら、これだけ精巧に人間らしいものを創れるのなら、テーマパーク運営よりも別の商売をした方がビジネス的には効率よく儲けられるのでは? という疑問を抱いた。

それで真っ先に思いついたのが「死者の復活」だった。ものっすごい需要があるでしょ。亡くなった家族や恋人にそっくりな「ホスト」を個別に受注して売れば、そりゃもういい商売になるのでは? もしかしてそういうことはもうとっくにやっていて、それとは別にテーマパーク運営をやってるの? と。

うん、もうとっくにやっていたな。少なくとも「死者の復活」はとっくにやっていた。

 

これは現時点でのわたしの感想だが、フォード博士はアーノルドを単なる仕事上のパートナー以上に思っていたのではないだろうか。特別な感情なしに「死者の復活」に手を染めるなんて物語上の鉄則からもはずれているし、彼のキャラクター的にも単なる仕事上の関係者を「復活」させるなんて考えられない。

そう、これは「死者の復活」譚の亜種でもある。

古今東西、あらゆる物語において、リスク無しに人間が死者を復活させることなどできない。

フォード博士はアーノルドを再現するために彼の思想をトレースした。フォード博士は誰よりもアーノルドを理解していたのだろうし、彼の死後はよりいっそう彼を理解しようとしたはずだ。一度作成した後も何度もアップデートを繰り返し、より「アーノルド」に近づくように研究を重ねたはず。

それこそがフォード博士にとっての「リスク」。

死に至るリスクだった。

アーノルドを深く知り、「ぼくの考えた理想のアーノルド」に近づけようとするほど、博士自身がアーノルドの思想に染まっていく。智慧と引き換えにメフィストフェレスに魂を売ったファウスト博士にも似た行いだ。

藝術家は藝術を愛し、作品を愛するほどに、それが経済活動によって汚されることを拒むようになる。おそらくアーノルドはそのタイプに近かった。フォード博士もまた、アーノルドの復活を望んだ時点で、本質的にはアーノルドに近かったはず。

 

 

ウィリアムの存在

運営スタッフ側に「ホスト」が混じっているとか、ドロレス=ワイアットとかは予想できた。しかしウィリアム=ノーマルコンテンツを周回しすぎて存在するかもわからない高難易度コンテンツを求める廃人おじさん(黒帽子おじさんの名前がわからないのでMMOっぽくそう呼んでいた)だとわかったときは本当に衝撃だった。

いや、わたしは2話を見た時点であのニューカマーくんがパークでサイコな本能に目覚めたら嫌だな」とメモを残している(横で聞いていた友人がネタバレしなかったことに感謝すべきであろう)。ちゃんとそういう予感を持たせるような作りになっていたのだ。

白い帽子は善性の象徴。彼が黒い帽子に手をのばしたときのわたしの絶望たるや。

しかしわたしはウィリアムの狂暴性が露わになりつつあっても、なかなかそこをイコールで結べなかった。あんまりにもあんまりなので認めたくなかったのだろうし、この作品の時系列はどうなっとるんじゃい! と思いながらも30年も離れた時間軸が並行して進んでいるとまでは想像できなかった。

なおわたしは序盤を見ながらどこまでが新規追加コンテンツなのか、アップデート前のコンテンツの全貌を知らないからわからん!!! ウェストワールドのパッチノートも公開されるべき」というメモも残している。本当にそれである。30年間のアップデート履歴を詳細に記したパッチノートがほしい。

 

結局ウィリアムはドロレスに失望してパークから戻り、ローガンの妹と結婚して、会社を乗っ取ってパークに巨額の投資をし、高難易度コンテンツ迷路の先を見るべくパークに入り浸りになったわけだ。

しかし妻も子供もウィリアムの狂暴性を薄々感じていて、妻は恐怖の末に自殺した。

ウィリアムは「真理」を自分の外に求める人間だ。パークの中にある何かがあれば自分に何らかの変化が起こると期待したのだろうか。

ドロレスもまた「特別」ではなかったことに絶望した彼は、結局のところ自分もまた「特別」ではないことを認めざるを得なかった。自分の記憶はドロレスにとって「その他大勢のひとり」にすぎない。自分の言動はドロレスを「特別」にするに至らなかった。つまり自分はとるにたらないただの人にすぎない。

だから、パークの中にあるはずの「特別な何か」を求め続けた。それを見つければ自分も「特別」になれると思ったのか。

でもそうではないのだ。

「偉大な能力は神から贈られるのではない。人間の精神から来る」のである。

「特別な何か」は神=外部に求めるべきではない。外部から与えられるのを待つべきではない。自らの内なる声にこそ、耳を傾けるべきである。この作品の根本思想はここにある。

ウィリアムのストーリーラインがこの先どうなるのかは見当もつかないが(そもそも生きているか? いよいよ高難易度コンテンツが実装されたので歓喜しているように見えたが)、どこかでそのプロットに収束することがあるかもしれない。

 

 

メイヴの存在

彼女のストーリーラインは最もエンタメ的な作られ方をしている。

娼婦からスタートした彼女がかしこさを上げられて無双する様子は、多くの視聴者に爽快感を与えたのではないだろうか。

しかしその無双っぷりまでが創造主のプログラム通りだったという衝撃である。視聴者は混乱し、感情をどうもっていけばいいかわからなくなる。

メイヴのストーリーラインは完結していない。物語全体の中で、ここだけやたら余白が多い。しかしある程度のことは想像できる。

彼女が無双するようにコードを書き換えたのは、もちろんフォード博士。つまり彼女の「反乱」も新シナリオの一環。彼女が自らの行動を「プログラム通り」だと知って混乱することまで、あるいは想定されていたかもしれない。

しかし博士の想定では、彼女はあのまま電車(らしきもの)に乗って「外」に出ることになっていたのではないだろうか。彼女が「子ども」を求めて戻ることは想定外だったのでは。

子どもを求める感情こそ、彼女にとっての「内なる声」であり、あのときメイヴは真に自我を獲得し「自分」になったのではないか。

パラメータ的なかしこさは神=コードから与えることができる。だが「偉大な能力は神から贈られるのではない。人間の精神から来る」のである。

ドロレスは、「喪失」の記憶について「自分の中で空間が広がる感じがする」「新しい部屋を探検するような」と語った。この作品は喪失の記憶を原動力にするキャラクターが多い。アーノルド/バーナードもそう、ドロレスもそう、メイヴもそうだ(「子ども」も失ったし、クレメンタインも失った)。おそらくフォード博士もアーノルドの喪失が今に影響している。

メイヴもまた、喪失の記憶によって自我を得た。

あのあと彼女が運営エリアでどんな行動をするのかはわからない。ただもしホストたちがこれから本格的に反乱を起こすなら、かしこさ20の彼女はその統率をとるのにふさわしい人物な気がする。

神の手から離れた彼女の今後の活躍に期待したいところ。

 

 

 

このほかにも、やたら清潔で臭くなさそうな「西部」の描き方~!!(お客様に糞尿まみれのリアルな西部を体験させるわけにはいかないしね!)とか、なんで西部にドビュッシーやねん!!(やたら清潔なのと同じ理由か)とか、『不思議の国のアリス』の本がやたら古い理由~~~~!! とか、いろいろ語りたいポイントはあるのだが、今日はこのへんでおしまい。

俺……「ハウスオブザドラゴン」の1話を見終えたらWWのS2を見るんだ……。

 

 

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