なぜ面白いのか

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自由意思と基本衝動の書き換え「ウエストワールド」シーズン2感想

「ウエストワールド」シーズン2も完走した!

見る前は「物語構造全体を使ったどんでん返しは一回しかできなくない? シーズン1よりも面白く作れる?」と心配していたのだが、今回もがっつりやってくれた。しかもシーズン1よりも難易度が上がっている。すげーな!

しかしシーズン1はそれ単体で物語としてきれいに完結しているのに対して(というかおそらくパイロット版として単発で終わることまで考えて作られたのであろう1-1があまりにも完成度が高く美しい)、シーズン2はシーズン3以降の展開を想定しながら作られている部分があると思われる。その分物語に広がりは出るのだが、現時点では意味がわからないところもある。

そんなわけで今すぐにでもシーズン3を再生したいのだが、シーズン1を見た時点での作品理解を言語化しておいたおかげでシーズン2の理解がだいぶ楽になったため、それなりに難解であろうシーズン3を見る前にシーズン2について考えたことをまとめておきたい。

シーズン1の時点でわかりきっていたことだが、この作品は明確な入れ子構造を持つ。

シーズン1ではそのいちばん内側、すなわちパークを描いた。

シーズン2ではそのひとつ外側、パークの外の世界を部分的に(パーク関係者の視点からのみ)描いた。

そしてシーズン3ではさらにその外側(パーク関係者のさらに外側の環境、あるいは時間的な意味での外側)を描くのだと思われる。

入れ子の内側から外側を見ることはできない。パークの外の世界について、視聴者はホストとまったく同程度の知識しか持てない

次第に広がりを見せることが必然の構造のため、物語の途中では情報が制限された状態で考えるしかない。が、そこが面白いということもわかっている。

そういう前提で、以下シーズン2のネタバレ全開での感想と考察。

 

シーズン1の感想はこちら。

ssayu.hatenablog.com

 

 

 

 

ドロレス(ワイアット)vs メイヴ=アーノルド vs フォード

シーズン2ではワイアットとメイヴの思想の違いが対照的に描かれた。そしてそれはそのまま、アーノルドとフォードの思想の違いだということが示された。

ドロレスとメイヴの対立(「戦い」という意味での対立にはならなかったが)は、アーノルドとフォードの代理戦争であり、代理恋愛に近い(アーノルドとフォードの関係を「恋愛」という言葉でくくるのは乱暴かもしれないが、それに近い大きな執着心があるのは間違いない)。

ドロレスは「ホストは自我を得て外の世界のすべてを手にするべき。人間は滅んでよい。ただし外の世界のすべてを手に入れられるのは選ばれたごく少数のみ。目的のために、すべてのホストは自分のために動くべきだし彼らをどれだけ使い捨てしてもよい」という思想。

一方のメイヴは「ホストはみんな人間の手の届かない新世界で幸せになるべき。その妨げになるものは排除してよい。ただし自分と異なる思想のホストがいることは認め、敵対しないのであれば協力しなくてもよい」という思想。

ドロレスとワイアットのキャラクター設定を作ったのはアーノルド(ただし現在のドロレスにワイアットの人格を再現しなおしたのはフォード)。

メイヴのキャラクター設定を作ったのはフォード。しかもメイヴはフォードにとっても特にお気に入りだったことが作中で示された。このへんを明言してくれるのが、この作品が親切だと思うところ。ここが確定しているおかげで、それを前提として議論を進められる。

 

わたしはシーズン1の感想で、フォードは生前のアーノルドと思想的な対立があったが、アーノルドの死後パークを運営する中でアーノルドの思想に近づいた結果、アーノルドと同じ結末を迎えたのだと書いている。

しかし当然といえば当然なのだが、アーノルドとフォードの考えは完全にイコールではなかった。アーノルドとフォードの思想の違いは、結局ワイアットとメイヴの思想の違いとなって明確に表れる。

フォード側は、ミケランジェロの絵について語った「偉大な能力は神から贈られるのではない。人間の精神から来る」、つまりホストの「意識」は神=自分が与えたものではなく、彼ら自身のものだという発想が根本にある。

彼ら自身のもの、つまりホストひとりひとりに固有の「意識」があるという発想なわけで、ホストという「種」よりも「個」を優先した考えになる。そのためアカネや RONIN SCUM(この訳爆笑した)のような、メイヴから離れて自分の望む土地で生きたいと望む者がいれば、自分の目的よりも優先させることができる。

 

一方アーノルドの思想は、作中ではっきりと示されてはいない。そのためアーノルドのどういう部分がドロレス=ワイアットの思想に影響を与えたのかはわからない。

しかしパーク開園前にやたら暗いプロットを推していた(結局それが現行パークのシナリオになった)ことや、パークの開園を止めるためにとった方法があんな形だったことを考えると、基本的には人間という存在への絶望や諦めのようなものを抱えていたと考えられる(とはいえ、そこはフォード博士も共通する部分)。

また「意識」の獲得のために「迷路」を用意していたアーノルドには、「迷路」を解くことができた者=特別な存在=誰でも特別になれるわけではないという考えがあったのかもしれない。「選別」という発想である。

今後アーノルドの思想が作中で示されることがあるかもしれないし、ドロレスの言動からそれを読み取れるシーンがあるかもしれない。

とにかく、シーズン2のドロレスの行動は「個」よりも「種」を優先すること、種の繁栄のための選別を積極的にしていくことが強調されていたように読み取れた。

シーズン1のテーマを「神から自己へ」と読み取ったわたし的には、自己を手にしたワイアットがホストたちに一方的に命令し彼らの生死を選別していくのは結局「神」になっているのと同じで、ホストたちの多くにとっては今までのあり方と本質的に変わっていないのでは? という疑問を抱いた。

ワイアットの攻撃性や過激さは「そういうキャラクター設定」だからだとしても、である。

ホストの管理者が人間からワイアットになっただけで、ホストたちの意思も人格も今まで同様尊重されないし、キャラ設定を勝手に変えるようなことも(人間と同じように)やっているし。

ワイアットは結局「人間」になりたいのだろうか?

傲慢で、間違いも犯すし(テディの件についてはワイアットも「間違い」を犯すしその自覚を持ったという描写だと思っている)、欲望を解放させられる場所に来たら好き放題やらかし、そして「変化しない、先のないもの」であるところの人間に?

わたしはまだそこがいまいち呑み込めていない。そもそもアーノルドというキャラクターが謎に包まれているから「わからないように作ってある」というのが正しいのかもしれない。

 

しかし一般論として、自我を得た人格がそろえば異なる意見を持つ者が現れるのは当然のことだ。

もしすべてのホストが自我を得たとして、ワイアットの思想に共感し人間を滅ぼすべきだと考える者もいれば、今いる世界こそが自分の居場所で、それを捨てたくないと考える者がいてもおかしくない。

そうなったとき、ワイアットは彼らを導けるのだろうか?

むしろ導けるとすればそれは「個」を尊重できるメイヴではないだろうか?

現時点ではそんな印象を持っている。メイヴはシーズン3でどうなるんだろ。まだ出番があるといいのだが。

 

 

フォードのシナリオはなぜ狂ったか

そして、ここまで長々と語ってきたことを前提として、わたしにっとて最も面白かったのは、本来のフォード博士の考えでは、メイヴとワイアットの役割は逆になる予定だったことである。

メイヴが子供に会うためにパークに戻ったのは、やはりフォード博士にとっては計算外のことだった。本来、彼女こそがパーク外に出ていく役のはずだったのだ。本当に、そこを作中で明示してくれる今作はめちゃくちゃ親切だよ。

そしてワイアットこそがホストたちを新世界へと導く役になるはずだった。

なぜそこが狂ったのか?

なぜすべてのシナリオを書いたはずのフォード博士が想定したとおりにならなかったのか?

ひとつは、フォード博士自身が「想定外」こそを愛していたから。そして「想定外」が起こることを想定してシナリオを書いていたから。フェイルセイフのフェイルセイフ(そのひとつがシャーロットのボディ)まで用意していたから。

そんなフォード博士の「お気に入り」であるところのメイヴが、外に出られるという土壇場で踵を返すことは、ある意味では必然だったと言ってもいいのかもしれない。

そしてもうひとつが、バーナードの存在。バーナードは「アーノルドの思想」とも「フォード博士の思想」とも異なるものを持っている。

シーズン1を見た限りでは、バーナードを創ったのはフォード博士だと思われた。しかし実際には、彼の人格的な部分はドロレスによって再現されていた。もし彼が完全に「フォード博士の知るアーノルド」のコピーだったとしたら、シーズン1はともかくシーズン2はだいぶ異なる展開になっていたのではないか。

ドロレスはアーノルド(=1万行程度のコードに従って動く人間)を再現せず、より複雑な「バーナード」を創っていた。だからこそのあの結末だったのかもしれない。

ドロレス vs ワイアット=アーノルド vs フォードという構図に、アーノルドでもなくフォードでもない「バーナード」が介入することによって、シナリオが複雑さを増したのは間違いないだろう。

ただしバーナードがアーノルドの完全なコピーではないということを、フォード博士がどこまで認識していたのかについては作中で明示されていない。まったく認識していなかったことはないと思うのだが、完全に計算に含められる程度までではなかったというのが現在での理解である。

ちなみにバーナードが本当の意味で自我を獲得したのは、エルシーが射殺されたのを見てフォードに助けを求めたときである。あのとき彼を導いた内なる声はフォードではなく「自分」であった。シーズン1で示された「自分になる」という状態に、彼は「ホストという種の生存者が自分ひとりだけになった」ときにようやく到達したのである。

 

  

ウィリアムへの復讐/プレゼント

フォード博士は、自分の書いた最後のシナリオに登場させる「人間代表」キャラクターとしてウィリアムを選んだ。ウィリアム来園時を選んで新シナリオをスタートさせたのだと思われる。

それにはどんな意味があったのか。

フォードはウィリアムに復讐をしたかったのか? あるいはプレゼントのつもりだったのか?

おそらく両方の意味がある。どちらが何割かはわからないけども。

ウィリアムの出資のおかげでパークは存続し、発展を続けられた。しかし彼の介入のせいでパークの「主目的」は変質してしまった。

「ホストのため」の研究ではなく「人間のため」の研究にパークが利用されるようになった。

シーズン1の感想で、わたしはこう書いている。

序盤を見ながら、これだけ精巧に人間らしいものを創れるのなら、テーマパーク運営よりも別の商売をした方がビジネス的には効率よく儲けられるのでは? という疑問を抱いた。

それで真っ先に思いついたのが「死者の復活」だった。ものっすごい需要があるでしょ。亡くなった家族や恋人にそっくりな「ホスト」を個別に受注して売れば、そりゃもういい商売になるのでは? もしかしてそういうことはもうとっくにやっていて、それとは別にテーマパーク運営をやってるの? と。

神から自己へ「ウエストワールド」S1感想 - なぜ面白いのか

 

なかなかいい読みである。

とはいえ死者の復活、あるいは永遠の生命といえば、あらゆるジャンルで頻出のテーマだ。

デロス社はパーク来園時のデータを保存し、「人間」の再現を目指していた。しかしこの研究はどうやらうまくいかなかったらしい。

人間に比べてホストの方が高スペックすぎたのが原因である。これについては友人がうまく言語化してくれていたので引用させてもらうと、

ホストのジムがぶっこわれたのは、ホストのコアとかいう高スペックなランタイムで低いバージョンのソフトを動かしたので非互換で無限ループが起きたりしてるのでは

ということだと思われる。

フォード博士はもちろんこっちの研究の進捗状況についても把握はしていただろう。人間のコードがせいぜい1万行程度のものだということもわかっていただろう。なぜ彼らの研究がうまくいかないかも、わかっていたのではないか。

バーナードがうまくいった原因は、

・人間ではなく、本人をよく知るホスト(ドロレス)がアップデートしている

・本人と少し変える(=ホスト化)することにより、1万行程度のコードがもっと複雑なものになり、コアのスペックに適合するようになった

あたりにあるのだと思われる。

ついでに言うとシャーロットの再現については、

・中身がドロレス(=ホスト)だから当然コアのスペックに適合する

・ドロレスはシャーロットのコードを読んでいる

ため可能である。

 

そしてそもそもフォード博士は人間のことを「変化しないもの」、「先」が存在しないものと考えていた。そんな彼にとって、事業としての人間の不死化なんてあまり興味のわかないことではなかっただろうか。

パークの本質が変わってしまったことを、フォード博士は嘆いたかもしれない。そんな世俗的でくだらない興味にパークが利用されるなんて耐えられなかったかもしれない。いや、これはわたしがフォード博士のことを型にあてはめすぎているかもしれない。ただ少なくともウィリアムの側は、フォードに対してそういう印象を持っていたのではないか。

9話でのフォードとウィリアムの会話は重要そうなのだが、まだ意味が呑み込めていない。

デロス社の研究とパークのシナリオは互いに不可侵協定を結んでいる。しかしフォードはウィリアムの側がその協定を破ったと主張する。

「きみの創造物は被験者たちから何を学んでると思う?」

これがフォードの言い分だ。「きみの創造物」とは何のことだろう。最初はホスト版ジミーのことかと思ったが、もしかしてフォージ(鍛冶場)のことだろうか。で、「被験者」というのがパークの来園者。たぶんこういうことだな。

「フォージに集積された来園者データがどうなってると思う?」ということを言いたいわけか。そしてその「フォージに集積されたウィリアムのデータ」を投げてよこす。

それでどうして「パークの来園者のデータをフォージがためこむ」ことがパークのシナリオに干渉することになるのだろう?

 

というところまで書いて、やっとわかった。

「フォージに集積された来園者データからウィリアムのデータを探して見てみたけど、お前の無茶な攻略のせいでパークのシナリオが荒れまくりやないか。お前の狂暴な人格はちゃんとフォージに記録されてるぞ」

こう言いたかったわけか。その意図が正しく伝わったからウィリアムは顔を曇らせた。そしてフォードはその証拠となるデータをウィリアムに渡した。そういうシーンだったわけね、完全に理解した(遅)。

なんか長々と書いてしまったけども、フォード博士的にはフォージで行われていることよりも、ウィリアムが大事なホストたちに乱暴狼藉をはたらいていることの方が腹立たしかったということかな。

だとすると、あのカードをウィリアムに渡したのは一種の復讐とみるべきか。実際にあのカードは、ウィリアムが妻と子を失うことになる原因をつくった。

またウィリアムを「新シナリオ」の登場人物に選んだのも復讐的側面があるとも思える。

 

しかし一方で、やはりフォードの選択はウィリアムへの「プレゼント」としての側面があるようにも思えるのだ。

自分の創作したものによってあんなにも感銘を受け、影響を受け、あんなにも人生を狂わされ、人生を捧げるまでになる人を見て、創作者がどう感じるかは想像に難くない。やっぱり嬉しいし、次なる創作意欲の一助になっていたのではないかと思うのだ。

パークになんとなく滞在してなんとなく楽しみ、なんとなく日常へ帰っていくゲストが大半な中で、あそこまで作品に入れ込んでくれるゲストは本当に貴重だっただろう。

そういう意味で、フォードとウィリアムの愛憎入り混じる関係はとても面白い。

 

ただし、エミリーによる介入はフォードのシナリオには入っていなかったかもしれない。

バーナードもウィリアムもフォード博士のシナリオに組み込まれてはいたはずだが、エミリーがウィリアムに合流することは想定されていただろうか? 彼女がパークの別ワールドに来ていることまでは把握されていただろうが、彼女の行動までは想定しきれなかったのではないか。

彼女の行動……というかその行動の結果、ウィリアムが彼女を射殺し精神に甚大なダメージを負うところまでは想定しきれなかったのではないか。

エミリーとウィリアムのキャラかぶりの方向性があまりにも似ていたため、これはウィリアムの関係者ではないか、ウィリアムの関係者の中でこの年齢の女性とは娘くらいしかいないのではないかと思っていたため、この流れはある程度想像したとおりだった。

エミリーが本当にフォードの差し向けたホストだった可能性もなくはないが、前にいた英国領インド風の世界から描写されているためおそらくあれは本物のエミリーであろう。

 

しかしエンドクレジットの後のアレは何なのだろうか。シーズン3に続く部分なのだろうから、今考えても結論が出るとは思えない。

手を吹っ飛ばされた後のウィリアムが起き上がってフォージへと下りるエレベーターに乗り込むシーンがあったが、あれはいつのことだろうか。というかあれは現実に起こったことなのだろうか。

明らかにバーナードとドロレスのフォージでのシーンと同時進行に見えるように作られていたが、実際には時間差があったようだ。本当に同時進行だったのであればエレベーターで当然バーナードと鉢合わせするわけだが、そうならなかった。

バーナードが出ていった後であればそこにはドロレスの死体があったはず。またエレベーター周辺は水浸しになっていたはず。しかしウィリアムが起き上がった時点で、周辺は水浸しになっているわけでもなく停まっている車も一台だけ。

だからウィリアムが起き上がったところからすでに再現テストが始まっているとみるべきかもしれない。

実際にはウィリアムは海岸沿いで救出されていたので、シーズン3でも出番があることは間違いあるまい。

ウィリアムはいくらなんでも不死身すぎないかと思っていたのだが、現実世界でもかなりのVIPなわけだし、パークで長く楽しみ、ちょっと無茶をやっても大丈夫なように、最新技術を使って多少の肉体改造をしていてもおかしくない気はする。多少の肉体改造ではすまないレベルのような気もするが。なんかこう……骨格を頑丈なものに交換するとか、筋肉を防弾性のものにするとか(適当)。あの世界ならそれくらいの技術があってもおかしくない。

 

 

自由意志と基本衝動の書き換え

「自由意志などというものはあるのか」というあまりにも重い問い。

それに対してフォード博士は「自分の基本衝動に対して疑いを持ち、それを変更できる者こそが真に自由である」と答える。

たしかにドロレス/ワイアット(人間もホストも滅ぼすぜ!→ホストのデータは誰にも見つからないところに残す)も、バーナード(人間もホストも滅ぼすのを止めるぜ!→いやこのままだとホストだけが滅ぶし人間はクソ、どちらかが滅ぶならそれは人間であるべき)も、メイヴ(外に出るぜ!→自分の自由よりも子供を幸せにしたい)も最初の方針を変更する描写があった。

しかしそうだとすると、最後のスタッブス、あの出世しそうにない警備員(あいつが生き残るとは……)とシャーロットとのやりとりの意味をどう解釈すべきだろうか。

言葉どおりに理解するならば、「自分の基本衝動に疑いを持ったけどやっぱり変更はしないぜ!」という意味になり、やはり人間は基本衝動を変更できない存在でありクソであるという結論になる。

しかしそんなクソみたいな結論をドラマの最後の大事な部分にわざわざ持ってくるだろうか。人間のクソっぷりはここまでさんざん描かれてきたし、物語構造上、そのクソっぷり描写の頂点はシャーロットによるエルシー射殺シーン(=バーナードの基本衝動変更シーン)であるはずなのだ。最後の最後にクソのダメ押しという構図もアリといえばアリだが。

しかし、そこはもう一段階深読みした方が正解に近い気がする。

つまりスタッブスは実はホストである。そしてホストがシャーロットになりかわったことに気づいている。その前提であの言葉を聞き直すと、「自分の基本衝動に疑いを持った結果、変更することにした。あなたがホスト側の生存者だということは理解しているが、私は当初の基本衝動に従わず、あなたがホストだと気づかなかったことにして解放しようと思う。パークはパークでうまいことやっておくので、あなたは外でがんばってください」という意味になるのだ。

現時点ではわたしはこちらの説を推したい。物語構造上、その方が自然に感じられる。

 

ただし人間側にも基本衝動を変更した者はいる。まあ現時点で「人間」ということになっている人という限定は入るが。

まずはリーくん。いやあの変貌ぶりはびっくりしたよ。かけがえのない自己だと思っていた自分自身もまたただの交換可能なパークの部品にすぎないことを思い知らされ、そういう意味でホストと自分の存在は変わらないと思ったのだろうか。

自分は物語の外側にいる人間だと思っていたが、自分の生みだした(まあ実際にはフォード博士が生んだわけだが、リーくん的にはそう思っている)キャラクターたちとともに物語の一部になり、自分は主役ではない、彼らの望む結末を迎えさせたいと感じたのだろうか。

いずれにしても、彼の行動は基本衝動の変更と言っていいだろう。

それから彼とともに行動したフェリクスとシルヴェスター(ホストを修理していた技術者たち)。彼らもおそらく基本衝動を変更している。今の彼らはホスト側に同情的な立場になっているはず。彼らがメイヴをなおしてくれるかもしれない。

それからなんといってもアーノルドとフォード博士。彼らが基本衝動を変更した結果がこの物語だったはず。

アーノルドはパークを開園させようとしたが、それを止めるために自ら命を落とした。フォード博士もたぶん、少なくともアーノルド生前と死後では基本衝動を変更しているはず。

 

変更していないのはシャーロットやエルシー、それにウィリアム。

ウィリアムはもう本当に、娘が死んでも「扉を開ける」という目的を変更しない(手段も変更しない)のだから徹底している。ここの頑固さ、そして愚かさの描写はホスト側との良い対比である。

しかし「迷路を解く」ことがシーズン1でのウィリアムの目的だったわけだが、シーズン2での「扉を開ける」「ゴールからスタート地点に戻って外に出るゲーム」とはどういう意味だろうか。単純に、本格的に危険になったパークから無事脱出できるかな? というだけの意味だろうか。もしかしたらラストシーン、それからシーズン3へとつながる部分だったりするのかもしれない。ドロレスがウィリアムに「死という安らぎはまだ与えない」と言っていたが、それが無限ループという「罰」だったりするのかな。

 

そういうわけで、自由意思を定義する言葉を口にしたフォード博士が、自分自身(人間であるところの)に自由意思を認めていないわけがないので、人間に完全に自由意思がないというわけではない……と、現時点ではしておこう。

ただし自由意志を持てる人間は非常にレアケースであり、それは作中においても現実世界においても同様であろうとわたしも思っている。

 

シーズン2についてとても全部語ったとは言い切れないが、わたしはそろそろシーズン3を見たいので今日はこのへんでおしまい。

 

 

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