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内なるカテリーナと対話せよ「9人の翻訳家」感想

いやはやよい映画を見た。

このブログを読むような人にはとてもおすすめしたいし、気づいたことをまとめておきたいので記事にしておこうと思う。

おすすめしたいと言いつつがっつりネタバレしているので、まだ見てない人はここで引き返してくれないか。

 

 

 

 

 

まず、この作品にはおそらく明確に「向いている人」と「向いてない人」がいる。

何かの作品にはまり、熱心なファンになったことがある人には向いている。そういう情熱が理解できない人には物語の筋も、登場人物の心情も理解できないだろう。

ある作品の売り方、宣伝の仕方に反感を抱いたことがあったり、ファンに支持されるクリエイターが会社都合ではずされたのを見てきたり、作品はいいのに翻訳はクソだと思ったり、そういう経験のある人にはとても感情移入できるだろう。

 

この作品は「作品とその売り方」「芸術とその受容」がテーマである。

作品は受容されることによって初めて完成するのだという考え方がある。

芸術家(あるいは「クリエイター」と置き換えてもいい)が芸術活動を続けていくためにはその作品が売れなければならない、ひとの目にとまらなければならないというのも事実である。

一方で、芸術家が商業主義に反発するのもまた理解できる。

作品の本質とはまったく違う低俗なキャッチコピーをつけられるとか。テンプレ的なクソダサポスターを作られるとか。試写会に作品ファンですらない芸人を呼んでインタビューするとか。芸術家以前に作品ファンからも反発されるような「プロモーション」は日本でもしばしば目にする。

そういった「売れてほしいけどこの売り方は……」みたいなファン心理がわかる人にはおすすめできる。

一方で業界あるあるだったり、業界の闇だったり、そういう部分もぶっこまれているので、業界関係者が見る際には心の準備が必要だろうと思う。

 

前置きはこれくらいにして、以下はネタバレ感想文。

 

 

 

 

 

失われた時を求めて』との関係

作品を見終えたわたしが真っ先にぐぐったのは、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』についてである。

わたしはこの長大な作品を読んだことがない。だが『9人の翻訳家』という作品に『失われた時を求めて』が大きな影響を与えているはずだということは直感した。

アレックスはかつてこの書に救われた経験がある。ジョルジュから「作品を誰が出版したかは関係ない」と諭される場面でもこの本が登場する。そして作品の結末では、この書に物理的に救われる。

失われた時を求めて』は長大な作品である。「最も長い小説」としてギネスブックに載っているレベルだ。そんな分厚さだったからこそ銃弾を止めることができた、というネタである。(よくそんな弁当箱サイズの本が胸ポケットに入ったな)

またこの作品は、

・時系列がバラバラ

・最初と最後が円環的につながる構成

・隠喩が多い

・芸術をめぐる思索が語られる

・主人公は少年時代にフランスの片田舎に滞在していた

・創作動機を小説の形で語っている作品でもある

と、いろいろな意味で『9人の翻訳家』と共通点をもつ。

ちなみに『失われた時を求めて』と、ジェームズ・ジョイスの『ユリシーズ』(『デダリュス』に影響を与えたと語られていた)は同時代の作品で、「20世紀を代表する大長編小説」としてしばしば並べて語られる。

『9人の翻訳家』はこの二作品から出発して創作された物語であろう。

 

 

喪失の物語

カテリーナは『デダリュス』を「悔恨の物語」だと語った。アレックスは「耐えがたい喪失の悲しみを描いた物語」だと言った。それをアレックスは「僕にも経験がある」と語る。

あの時点でのアレックスにとっての「耐えがたい喪失」は、師匠のジョルジュを失ったことである。しかし『デダリュス』を執筆した時点ではまだその喪失は経験していない。別の経験をもとに作品を書いたということだ。

おそらくあのプールのシーンで彼が語ったことは、『デダリュス』執筆の動機でもあり、同時に「この作品」つまりアングストロームを陥れる作戦の動機でもある。

ジョルジュはアングストロームに出版社を変える意思を伝えるはずだった。だが彼は火事で亡くなり、なのに原稿はアングストロームに渡り出版されることになった。この時点でアレックスにはアングストロームが犯人だとわかっていたはず。

アングストロームを告発するだけなら、アレックスは自分こそオスカル・ブラックだと名乗り出るだけでいい。アングストロームは火事の日にその場にあったはずのもの、つまり物的証拠を持ち帰っている。加えてアリバイもないはず。少なくとも重要参考人にはなるだろう。

ただしそれで有罪までもっていけるかどうかはわからない。

「出版社を変えるとたしかに言われたが、熱心に説得した結果許可をもらった」「火事は自分が帰った後に起こった」みたいな感じで言い逃れられるようにも思う。

 

またそもそもアレックスは作者として表に立つことを避けていた。その理由は直接には語られないが、それもまた彼の「創作動機」とかかわっているものと思われる。

アレックスにとって作品は、ジョルジュという理解者に受容された時点で「完成」されるものだったのだ。それ以上「手を加える」ことは、むしろ作品を台無しにしかねない。犯罪の告発という形で作者として名乗り出るなど、絶対に避けたかったはず。

 

だから彼は計画を練った。

目には目を、ではなく「アングストロームに最も効く」方法を考えた。

商業主義の彼にとって、最も効くのは財産を奪われること。しかも自らの手で投げ出させること。それもまったくの無為に。

さらに数々のパワハラ言動から見るに、どう考えても自らの地位や権力がアイデンティティになっているタイプだ。そういった地位を失わせるのも目的のひとつである。

現在アングストロームの口座には8000万ユーロが振り込まれている。本来この件で彼は投獄されるはずだった。

まさか警備員も見ている前で堂々の発砲をするほどヤバい人だったとまでは、アレックスも予想できなかったということか。もうすでにひとり殺しているのを知っているのだから見立てが甘いような気もするが、しかしそのときは自分に疑いがかからない状況だったのだし、そこまでヤバいやつだと予想できなくても仕方ないかな……。

そしてジョルジュへの犯行を自白させることが最終目標。

「いったいどうやって原稿を流出させたのか」「方法さえわかれば逆にアレックスを訴えられるのに」と思っているアングストロームに、「オスカル・ブラックに会わせろ」と主張し続けるアレックス。もちろんアングストロームはアレックスを「オスカル・ブラック」に会わせることはできない。「自分が殺してしまった」のだから。

しつこく「オスカル・ブラックに会わせろ」と言い続けていれば、どこかで「もう無理なんだよ!!」と「自白」するだろうという読みだったのか、あるいは警察側もさすがにいずれは「こんな状況なのにどうしても会わせられないのはなぜか」と調べ始めると読んでいたのか。

いずれにしてもアレックスはやりきった。

 

しかしこの「作品」の完成とともに、アレックスはさらにもうひとつの「喪失」を受け入れなくてはならなかったのではないだろうか。

つまりカテリーナである。

カテリーナは、アレックスにとっての「レベッカ」である。

レベッカのコスプレで仕事場に現れる、『デダリュス』の超強火ファン、カテリーナ。彼女は単なる強火なファンというだけではなく、作品のよき理解者でもあった。作者自身も認めるほどに。

アレックスはジョルジュに続く第二の理解者を得たのだ。それが「作品を発表する」ということの意味のひとつでもある。ほかの誰もが低俗な作品理解しかしていなかったとしても、ただひとりの理解者がいればいい。もともとアレックスの創作はそういう始まり方をしたはずだ。その「ただひとり」がもうひとりいた。その「ただひとり」と出会うことができた。

それがどんなに希少で、奇跡のようなことか、アレックスにはわかっていたはず。

だからこそ、カテリーナは死ぬことになる。と思う。

(もちろん作中では明言されていないので、反対の解釈をする人もいると思う)

『デダリュス』をミステリーとして見た場合、レベッカは「被害者役」である。そして誰よりもカテリーナ自身が彼女と同一化しようとしていた(カテリーナのレベッカ解釈によれば、彼女は単なる被害者ではなかったが)。そして「実際にそうなる」ことで物語が完結する。「フランクは彼女を『永遠に失った』と気づく」のである(カテリーナのセリフより)。

それがこんな無関係な人まで巻き込む計画をしたアレックスへの「罰」ということになるのだろう。

そしていずれ、アレックスはカテリーナの喪失を動機として、次なる作品の執筆にとりかかる。まさにファウスト博士とグレートヒェン。だがその傑作が出版される見込みは低い。

 

 

なぜ『オリエント急行殺人事件』にしたのか

見ていてつい「ネタバレじゃねーか!」と叫んでしまったが、まあ原作は100年近く前だし映像化も何度もされているし、もう定番ネタと呼んでも差し支えあるまい。

アレックスがなぜあんなに翻訳家を巻き込んで「不必要な」すり替え作戦をしたのか、ちょっと整理しておきたい。

まず第一に、アレックスは「作品の中身」は最初から盗む必要はなかったが、「シェルターの中から原稿が流出した」とアングストロームに思わせる必要があった。そのためあらかじめ用意したメール脅迫文に沿ったセリフをシェルター内で出す必要があった。このセリフを全部アレックスひとりが言うのはあまりにも不自然である。最初の脅迫時はキーワードを出したチェンが疑われたし、あれが毎回同一人物だったら疑惑一直線だ。

メールに書いてあるキーワードが毎回別人から出ていれば、疑いも分散する。まさに『オリエント急行』。

それからもうひとつ、今回の事件はジョルジュに捧げるためのものだった。ジョルジュとの出会いのきっかけだった『オリエント急行』へのオマージュめいた作戦をとるのはアレックスの意思だったのではないだろうか。

 

 

オスカル・ブラックとアングストローム

アレックスはオスカル・ブラックと会えたらまず何と言うのか尋ねられ、「黙ってる」と答えた。「もし会えたら彼の語る言葉に耳を傾ける」と。

ここはわたしが大いに共感したポイントだった。わたしももし憧れの作家に会うことができたら、わたしの話よりも相手の話を一言でも多く聞きたい(まあ実際には相手から言葉を引き出すためには「良い質問」が必要なので、本当に黙っていることはないのだが)。

これを聞いたとき、アングストロームとアレックスの前半における面会シーンは、「その反対」だと感じた。アングストロームの態度は何もかもアレックスが想像する「理想のオスカル・ブラックとの対面」とは反対だ

アングストロームは自分の話しかせず、自分の欲求しか言わない。相手から話を引き出す必要があり自分からアレックスを呼んだくせに、一貫して「それが人にものを尋ねる態度か?」な話し方である。

彼が「お願いだ S'il vous plaît」と口にするのは、ちょうど上映時間の半分のところだ(計算してこの構成にしているはず)。この言葉に反応して、アレックスは初めて口を開く。そう言うのを待ってたんだなあ。というか、言わせたかったんだろうなあ。

 

 

内なるカテリーナと対話せよ

わたしはアングストロームのことを映画史に残るレベルのクソ野郎だと思ったし、最終的にこの人が「犯人」扱いされて終了するのは「すっきり」したし、ミステリーとして見ても二転三転する謎解き構成は面白いと思った。

が、自分の中にいるカテリーナが「そんな感想は全部クソくらえだ」とゴシック体のクソデカ文字で主張してくる。

これはそういう話ではない。

芸術とは何か。

何が芸術を生むのか。

芸術を消費する大衆の存在の意味とは。

金のために真に愛するものをドブに捨ててもいいのか。

芸術家は商業主義を否定した。

自らの力で真善美なるものを生み出すことができないと悟った彼女は死を選んだ。

愛する文学を汚している自分に気づいた彼女は「文学に携わる仕事」から離れた。

お前は何を選ぶのか。

内なるカテリーナが存在する人にとって、この作品はそういうメッセージを持っている。

 

 

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