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最果てに生まれる希望「ファイナルファンタジー14」プレイ日記・52

白魔クリスマスツリーです

モグコレ周回も忙しくなってきたこの頃、いかがお過ごしだろうか。

わたしは星芒祭を満喫し、白AFを緑に染色してクリスマスツリーになり、その格好でマハやダン・スカーに通っている。

普段だとマハはオーバーデスやオズマの○△□で大惨事になりがちだが、モグコレ期はみんな周回で慣れているためか比較的安定している。しかしダン・スカーのディアボロスは相変らずタンクの突然死があり得るので恐ろしいところである。マジでナイトメア。楽しい。

周回していて改めて思ったが、なぜダン・スカーにアルテマウエポンが乱入するのだろうか。あれはヴォイド生物じゃないよね? ケット・シーもヴォイドではないと言っていた。

アルテマウエポンとは何か問題については暁月以前から気になっていたのだが、暁月でも解明されなかったので今後何かわかるといいなあと思っている。

黒聖石サビクって何!? 究極魔法アルテマって何? 十四人委員会のウルテマさんとは何か関係がある? 教えてラハブレア!

 

さてそんな募る疑問はひとまずおいといて、今日は連日号泣させられたオミクロンデイリーの感想を書いておきたい。友好部族クエストは今までどれも楽しかったが(いやふっちのデイリーはなかなかきつかったな……)、オミクロンデイリーは格別だった。

以下、オミクロンデイリーのエンディングまでネタバレあり!

 

 

 

 

 

 

通信回線に乗せられない罵倒とは

 

設定の面白さ

オミクロンデイリーの面白さは、まずなんといってもその設定のうまさにある。

このデイリークエストが開始された当時、我々ヒカセンは日々エキルレに通い、レムナントを周回していた。そこでヒカセンが戦うのは、病いに侵されたグレビュオフ、互いに殺し合うカレルアン、生きる意味を失ったニビラーン(の喚んだもの?)。

わたしたちは彼らの絶望をよく知っていた。繰り返し繰り返し味わった。

彼らはそれぞれ異なる理由で滅んだが、そのそれぞれの理由もよく理解していた。彼らの考え方もわかっていた。ラーラー構文にいたっては一時期ミームにもなった。ラーラーよ、年末の仕事を消し去っておくれ……。

 

その上で、わたしは彼らと最果てのカフェで再会する。

オミクロン族のデイリークエストが始まると聞いたときは、ドラゴンやイーアたちも絡んでくるのかな? と期待したが、まさかレムナントの彼らにまで再会できるとは。最初にグレビュオフと出会ってそれを予感したときはぞくっと鳥肌が立ったものである。

その構成の妙よ。

繰り返し見て頭に刷り込まれた悲劇とは別の結末を見ることができる「可能性」。

これは暁月をリアルタイムでクリアして、日々エキルレをやっていたからこそ抱く感情かもしれない。もしかしたら後発プレイヤーだとレムナントを一回クリアしただけでオミクロンデイリーにたどり着くこともあるかもしれず、その場合はレムナントを周回しまくったプレイヤーとは感じ方が違うだろうということは想像できる。

(こうして考えてみると今まで50・60・70・80レベルのわたしがさらっとクリアしてきたダンジョンもその当時のヒカセンが周回しまくったエキルレだったわけで、当時実装されたコンテンツもその周回を前提としたものになっていたのかもしれないわけで、実装当初のプレイヤーの感想を後続がそのまま味わうのは難しいのだろうと思ったりもする)

ラストレムナントでの一連のクエストでわたしがいちばん心動かされたのは「エキルレ周回という体験を前提とした物語作り」という、パッチによって物語が追加されていくMMORPGならではのあり方の部分だ。わたしはあらゆる物語媒体において、その媒体ならではの特性を活かした、その媒体でなければ作れない物語に歓びを感じる。オミクロンデイリーはまさにそのひとつであった。

 

 

カレルアン

エストスタート時点ではこれだから

自由と秩序がわかりやすく対立するカレルアン星の赤と青。

彼らは思想の違いから互いに殺し合い、戦争の末に星を滅ぼした。わたしたちは何度も、滅んでいく星を遠景に目撃した。最後の一人は「なぜこんな力を得てしまったのか」と嘆き、おそらくはあのあと自ら命を絶ったのだろう。

そんな彼らは、デュナミスが生んだこの最果てで再会し、食の歓びを共有することによって手を取り合い始めた。

非常に発展した科学技術を持つ彼らが、原始的な歓びによって希望を持つ構図である。

描写の端々から察するに、彼らの星は食糧生産も自動化され、食事が味気ないものになっていたのではないだろうか。「食卓につく」という文化すらなくなっていた可能性もある。

そんな彼らにとって「味わう」という身体的行為、肉体的快感は新鮮だったのかもしれない(これはイーアにも通じるところ)。その肉体的快感は、その後農作業という肉体労働へとつながっていく。

エリュシオンには農業用機械も現れたようだが、それは「全自動プラント」ではなかった。彼らのデュナミスは、肉体労働を継続することを望んだようである。

また彼らは雑草を利用して畑に紋様を描いた。それは彼らの先祖が吉兆とした印らしい。行き過ぎた科学偏重が最終戦争を招いたことの反省だという。

 

現代人はここから何を学ぶべきだろうか。

科学を捨てて原始的な農耕文化に戻るというのは現実的でない。

カルレアンの物語は「お前の思想はクソだが、それはそれとしてお前と食うメシはうまい」という人間関係のあり方、すなわち多様性のある社会のあり方を示している。

互いに理解しあえない者同士でも「それはそれとして」が成り立たなくては社会は回らない。その「それはそれとして」を成り立たせているのが身体的経験・肉体的快感という「共通項」なのではないか。

ともに食卓を囲むこと、共同作業、肉体労働後の疲労感、そういった体験を共有することによって相互理解が進む可能性。それは現代人が心にとめておくべきことかもしれない。

おいやめろ

 

グレビュオフ

最初にレムナントで会ったグレビュオフは、あの着込んだスーツ(?)やただれた体が恐ろしく思えたが、素の彼らはとてもかわいらしかった。

あれはひょっとしてナマズオのボディを流用しているのだろうか。というかもしかして、ヒカセンがナマズオの未来を変えなければ、彼らもグレビュオフと同じ道をたどってしまう可能性もあったりして。

グレビュオフたちは「愛する海を濁らせた」ことによって疫病が蔓延し、滅ぶことになった。彼らもカレルアンと同様に、科学技術を発展させたことを後悔していたのではないだろうか。だからこそ彼らのデュナミスによって生まれた景色は、美しい海だった。

エリュシオンでのんびり釣りをしたり潮干狩りをしたりしているグレビュオフを見てぼろ泣きした。この景色を失ってはいけないのだ。持続可能な産業のあり方が問われるお話であった。

 

 

イーア

ウルティマ・トゥーレで最も好きだったイーアのパート。

そんなにSF作品を読んでいないのでわかる元ネタは限られるが、それでも好きだった。

イーアの物語でも、身体的経験・肉体的快感の大切さが語られる。カレルアンよりもさらに踏み込んで、直接的に。

肉体は定命で、次第に老いて朽ちていくものである。しかし肉体的刺激こそが生の実感であり、生命は定命であるがゆえに「生きている」と言えるのである。

新しい生命誕生のシーンでまたぼろぼろに泣いた。

幼く弱い、定命の肉体を持つミゥ・ミーシュたちを、イーアが穏やかに見守っているのが本当に良い。永遠の命を得た彼らにとって「時間」とはほぼ意味を持たないものだった。しかし子どもが生まれた途端に、「時間」はそのまま子どもの成長を意味するものになる。肉体を捨てた彼らが再び「時間」に意味を得たことは、ひょっとしたら肉体への憧憬以上に重要だったかもしれない。

イーアたちがビリビリの刺激を喜んでいるのもほほえましい。あのビリビリアクションをするとき、中でククルカくんもビリビリしているのが面白い。

 

エリュシオンマップの端には、マップの外側を見つめるイーアがいる。何を見ているのか気になって視点を動かしてみたら、向こう側にミゥちゃんがいたじゃないの。細かい……! けどエリュシオンって、こういうひとりひとりの個体が見ているもの、感じているものがこちらに伝わるように丁寧につくってあって、本当に好きなんだ。

 

ミゥ・ミーシュはイーアたち本来の姿とはまた別のものらしい。あくまで新種の生命で、再現体ではないのだという。それがどんな意味を持つのか、まだわからない。でもそれはもしかしたら、この「終わってしまった世界」から新たに「始まり」が生まれたということだったりするのかも。

ENDWALKER が見た星の終わりから、次は何が生まれるのだろうか。

 

 

ドラゴン

ソーム・アル・オ・マロンがまさかこんなところで意味を持ってくるとは……! クラフターで作ったことあるよ、そのお菓子!

これって要するにモン・ブラン・オ・マロン Mont Blanc aux marrons(栗で作ったモンブラン山の再現)のことだよね? と思ってはいたが、世界の果てでドラゴンに召し上がっていただくことになるとは思ってもみなかった。

彼らの絶望は故郷が失われたことによるもの。だから彼らには故郷を思い出すものを提供すれば、彼らが本来持つ誇りも思い出せるという流れ。

ドラゴン星を滅ぼしたオミクロンを見たら争いになるのでは? という心配は杞憂に終わった。ドラゴンは、敵意のない者に敵意を向けることはない。それが「誇り高い」ということなのだろう。

このやりとりを見ると、ドラゴンから攻略していくのは難しかったのかもしれないと思わされる。ジャミングウェイとN-7000とヒカセンがここまでがんばっていろいろな種族の希望を生んできたからこそ、ドラゴンも歩み寄りを見せてくれた。

ドラゴンについては蒼天、暁月で彼らの生き方や誇りのあり方を見せてくれていたから、彼らの母星の竜たちがここで故郷を想い続けているのは感慨深かった。

ニーズヘッグが抱えていたのは怒りであって絶望ではない。最果てのドラゴンたちは怒りなど忘れ、諦めと悲しみのみを抱えていた。その違いこそがすなわち「生命」かどうかを分けるということだったのかな。

エリュシオンではドラゴンの卵も産まれていた。最果ての地で誕生するドラゴンと、アーテリスのドラゴンが出会うこともあったりするのだろうか。

 

 

オミクロン

オミクロンーーーッ!!!!

一連のオミクロンクエストに心を動かされた人は、というか暁月に感動したヒカセンのみなさん、「ウエストワールド」というドラマを見てくれ(2022年12月現在、U-NEXTで配信中)!!!!

N-7000の提示した、基本プログラムと自由意思の問題は、まさに「ウエストワールド」のテーマである。高度に発達した科学技術による管理社会、そこで生まれる絶望や争い、人類滅亡とその回避のための方法……と、ここまでプレイしてきたヒカセンなら思い当たるキーワードが多いはずだ。オミクロンクエストの副教材のつもりで見ると、楽しめることうけあい。

わたしの感想はこちらから。

神から自己へ「ウエストワールド」シーズン1感想 - なぜ面白いのか

 

カフェが軌道に乗り、絶望した生命の多くが希望を持ち始めたことで、N-7000は目標を達成したと評価し、自らシャットダウンしようとした。

しかしN-7000の中には「カフェを続けたい」「カフェの経営が楽しい」「カフェの来訪者が喜んでくれて嬉しい」気持ちが存在していて、そのこととN-7000に与えられた本来のプログラムがせめぎあっていた。

結果として、ヒカセンとジャミングウェイの冷却ドリンクのおかげで、N-7000は自由意思による基本プログラムの書き換えを行ったようだ。

かつてスティグマ・フォーは自分たちがなぜ生きるのか、他者を滅ぼして得た生存の先に何があるのかについて悩んでいた。

N-7000は「可能性の永続」のために生きることを選んだ。それはもともと持っていた生存目標を上書きするくらい素敵な目標だった。

だけど、わたしは彼は本当はもっと単純な理由で生きることを選んだのだと思っている。生きることが楽しいから。他の生命たちの喜びが嬉しいから。ジャミングウェイと一緒に働くことに幸せを感じるから。もっと生きたいと思ったから。そういうことでしょ?

今の彼は他者の喜びを自分の喜びとして感じることができる。他者の幸せが自分の幸せにつながることを知っている。「共感」を知った彼は、もう他者を滅ぼしたりしないだろう。きっとアーテリスにいるオメガも、N-7000に「共感」できるんじゃないかな。

今では、うさみみをつけたN-7000が愛おしくてたまらない。しかしあんなに進んだ科学技術から生まれたのに、なんでいまだにダイヤルアップ接続なんだろうな。

めちゃくちゃ記憶にある音なんだよ

 

ニビラーン

ラスボス、ニビラーン。

完全な相互理解が進んだ結果、悲しみも苦しみもなくなり生きる意味を失った彼らにいったいどう向き合うのか。

これもまたパンドラの箱問題の一種だ。「未知」こそが希望である。「知らない」「わからない」ことが希望なのであって、すべてわかるようになってしまったら希望もなくなってしまう。

このクエストで気づいたのだが、ニビラーンは「当個体と全個体」というフレーズを「一人称」として使っているのだ。これはなかなかに衝撃だった(最初は「当個体」が一人称なのだと思っていた)。完全な相互理解が進むとそういうことになるのか。

当初はとんでもない難敵のように思えたが、彼らへの対処方法はこれまでの物語をふまえれば明快であった。

相互理解が進んでいない相手、すなわち多様な者との対話である。

「議論」とは、考えを異にする者同士だからこそ成り立ついとなみ。考えを異にする者同士が、しかし相争うことなく、カフェで飲食を共にしながら議論を楽しむ。それは「生きる喜び」に値するのではないだろうか。イーアはその可能性を提示し、ニビラーンもおそらくはその可能性に気づいた。

暁月のテーマのひとつは、生命の多様性の持つ強さだった。それがここで改めて示された感じだ。

わかりやすいまとめ



エリュシオンを構成するデュナミスについて

そんな感じで、初めてウルティマトゥーレを訪れたときには想像もできなかった大団円を迎えたラストレムナント

うまくいきすぎではないか? という気がしなくもないのだが、考えてみればうまくいきすぎなのも当然かもしれない。

ここは想いの力が形になるデュナミスで作られた世界。そしてそのデュナミスには、ヒカセンや暁のみんなの希望が溢れているはず。エメトセルクとヒュトロダエウスが最後に使った「創造魔法」(わたしはあれはエーテルを操作する「創造魔法」ではなく彼らがデュナミスを動かしたのだと思っている)の影響も残っているはず。アーテリスからもたくさんの希望が届いているはず。メーティオンが最後に残した逆彗星の影響だって残っているはず。そこには最初にヘルメスが望んだ「優しい答え」への想いだって残っているはず。

だからこそ、のハッピーエンドなのではないかな。

今エリュシオンを構成しているデュナミスは、先に滅んだ彼らの幸せを願うものだった。それが結実して奇跡を起こした。そういうことでいいんじゃないかな。

 

ピザを食べられるようになった

 

 

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