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黒とオレンジと青緑「True Detective ロサンゼルス」感想

S1から少し間が空いたが、True DetectiveのS2「ロサンゼルス」をようやく見た。

S1がキャスト・シナリオともに神がかっていただけに、とんでもないハードルを掲げての作成になったと思われる。

あれだけきれいにまとめた話の続きなんて不可能だろうと思われたが、キャストも舞台も一新してまったく新しい話になった。

以下、ネタバレ感想。

 

「True Detective」感想目次はこちらからどうぞ

 

コロンボ泣いちゃう

つい先日まで「刑事コロンボ」を見ていたわたしにとってこのドラマは、ロサンゼルスが舞台の警察もの! コロンボの時代から40年後か~! というわくわく感があった。

しかしなんということでしょう、コロンボの勤めていたLAPDは見るも無残なまでに腐敗していたのです。

警察関係者があっちもこっちも腐敗しまくりなこのドラマ、コロンボが見たら泣くぞ!

レイが「俺はコロンボじゃない(字幕では「俺は名刑事じゃない」になっていた)」と言っているあたり、やはりLAPDコロンボというイメージは強いようだ。

 

黒とオレンジ、青緑

S1の画面が全体的にグレーがかっていたのに対し、S2ではかなり徹底して画面が黒とオレンジ、そしてそこにできる影は青や緑で作られている。

実際、↑のDVDパッケージも、huluなどで表示されるドラマのアイコンも、黒とオレンジと青緑でできている。

これはドラマ全体の雰囲気を決定するのに大いに貢献していた。

黒とオレンジから作られる印象は暗く大人びていて華やかで、しかし同時に生理的嫌悪感を催させるような青か緑が差し込まれる(画面全体が青に侵食される2話冒頭などは、夜中に見ていたため非常に恐ろしかった)。

 

S1の舞台はルイジアナ州バーミリオン、人口5万人余りの田舎である。

その地における「緑」は自然を表していた。

あの空撮された大陸的自然は、日本人であるわたしにはとても雄大に感じられた。

自然、すなわち緑は必ずしも人を癒してくれるものではなく、むしろ人を蝕んだり悪いものを飲み込み隠したりもする――S1での「緑」はそんな描かれ方である。

 

しかしS2の舞台は大都会ロサンゼルス。

S1と同じく空撮のシーンは素晴らしかったが、そこで映るのは主に黒とオレンジの夜景。その狭間に差し込む青緑の影は不気味だった。

S2の「緑」は都会の不気味さの象徴なのかもしれない。

 

S1とのシナリオ比較

このシリーズの売りの一つは豪華キャストの共演なのだろうが、海外ドラマも映画もにわか野郎であるところのわたしは俳優についてろくに知らないため、ここではすっとばしてシナリオの話にいこう。

 

まあなんというか、ざっくり言ってS1ほどではなかった。

というかS1の何が受けたのか、製作側はわかってなかったのか? と感じた。

話をわかりやすくするためにも、シナリオの要点をS1と比較してみようと思う。

先に断っておくが、S1と比較せず単発のドラマとして見れば決して悪いものではないと思われる。ただタイトルが悪かったという話だ。

 

 

キャラクターの関係性

まず、S1は邦題どおり「二人の刑事」の関係性を濃密に描いた。

視点となるのはマーティンかラストのどちらかであることがほとんど。

二人の周囲に配置される人物はいても、きっちり「脇役」としてその役を務めた。

ラストの家族が最初から最後まで話の中にしか出てこず、回想シーンもないのが、マーティンと対照的でこれもうまくいった要因の一つだ。視聴者はラスト救済の鍵となる彼の娘を、理想の「天使」として自由に思い描くことができる。

「二人の刑事」とその関係の変化を、8時間かけてじっくり味わうことこそ、わたしにとってのS1の面白さの筆頭である。

 

これがS2になると、中心となる人物が四人になる。そしてその周辺人物(家族や恋人など)もかなり出てくる。

それだけでかなりの人数になり、登場するそれぞれのエピソードをやろうとすると相当な時間をとられる。

ドラマ総話数は8話でS1とかわらないのだから、やはり一人(というか一組)あたりの関係性の描写はどうしても薄くなる。

メイン四人の中でも、フランクはレイとしかほとんどかかわっていないし、ポールにいたってはフランクどころかレイやアニーともあまり深く関係していない。

ここはやはり残念だった。

わたしは群像劇が好きだが、「TRUE DETECTIVE」には群像劇的なものを求めてはいないのだ。二人の関係性をひたすら濃厚に描いてくれればいいのだ。というか群像劇としてもキャラ同士の関係性が薄すぎていまいちなのでは?

 

救済

これはわたしなりの解釈なのだが、S1は救済の物語だった。

長く罪悪感と孤独感に蝕まれてきたラストが、外の世界を見つめることで内なる世界と繋がり、赦され、「産まれなおす」物語だ。

ラストは最後に死によって救われるキャラなのだろうと思いながら見ていたわたしには、あの最終回こそ「意外な結末」だった。

見ようによっては「内部」と「外部」の問題についてあれこれ論じることもできそうな、哲学的テーマをたくさん内包したS1であったが、ともかくわたしはあの結末に幸せを感じた。こうなってくれてよかったと思えた。

S1のファンというのは、そういう部分に心を動かされたのではないだろうか。

 

それがS2では、レイもフランクも終盤になるとものすごい勢いで死亡フラグを積み上げていき、「いやいや、このシリーズはきっと『生』で終わるんだよね?」と思っていたら、本当に死におった!

レイもフランクもラストとは異なる罪を抱えていて、それは現世で赦しを得られるのとはまた別種のものである(つまり「死」によってのみ救済を得られる)、という描き方になっているのはわかる。

最後は新しい命が誕生して、未来に希望をつなぐ形で、つまり「生」で終わったということができるのもわかる。「愛のあるセックス」でレイとアニーが確かに救済を得たのも、そこに必然性があったのもわかる。

だけどなんというか、「TRUE DETECTIVE」に求めているのはそういう救済だったっけ? という気持ちがどうしてもある。

あとポールに至っては救済されてなくね? 子供が生まれたからOKなのか? 彼の存在とは何だったのか。

 

 

サスペンスとしての「TRUE DETECTIVE」

以上の感想から察せられたと思うが、わたしはこのシリーズをサスペンスとかミステリーとして見ているわけではない(S1の最初の頃はそう思っていたが、途中でそういうのではないと思いなおした)。

謎解きはあくまで添え物であって、人物の関係性と救済への道筋を描くことこそが「TRUE DETECTIVE」の面白さだと考えている。

とはいえおそらくサスペンスやミステリーとしてこのドラマを期待していた人もいたのではなかろうか。

そういう人にとって、このドラマはどうだったのだろうか?

謎解きという意味では、宝石強盗の話が出たときにやたらと残された子供の話をするものだから、この時点で全体像を察してしまった人が多いのではないかと思われる。

「意外な犯人」にしようとしたのなら少し雑であった。

これくらいしか言うことを思いつかない。

もうこれについては誰か別の人が語ってくれるのを待ちたい。

丸投げであるが、「わたしにとってはそういうドラマではない」というだけの話だ。

 

 

ドラマ全体を振り返ると、「S1のやり方を形式的には踏襲できているが、なんか思ってたのと違った」という感じである。思っていたのと違うなら違うで、それで前作より面白ければ構わないのだが。

わたしにとっては、結局「なぜS1は面白かったのか」を振り返ることができたという意味で収穫があった。

S3が作られるのかどうかもよくわからないが、どんな舵とりになるのかちょっと心配だ。

 

音楽はすごくよかった!

 

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