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天才性と悪趣味について「クリミナルマインド」S1・2感想

 

1話完結でさくさく見られるドラマが見たいなということで、前から気になっていた「クリミナルマインド」をチョイス。

いろいろと古いと感じる表現はあるものの(実際10年前のドラマだし)、45分という短い時間でシリアルキラーを扱うという離れ業をやってのけるためのさまざまな工夫が面白い。

以下はS2までのネタバレ感想。最後に少し「ダンガンロンパ3」について。

 

45分で連続殺人事件を解決

このドラマのいちばんすごいのはここだ。1時間枠の番組で連続殺人事件が取り上げられることはあまりない。

一つ目の事件発生後、捜査にとりかかっているところに二つ目の事件が発生、そして三件目が……という筋書きでは、時間が足りないからだ。

このドラマはそこをうまく解決している。

つまり主人公たちのチームが出動するのは、数件の事件が発生し、これは連続殺人事件だというところまで捜査が進んだ後なのである。

主人公たちがFBIだという設定も活かされるし、基本的な捜査の様子も全部省けるし、これはうまくやったなあという感じ。

 

メインキャラ全員が優秀な設定のためセリフのテンポも速く、ミスリードはあっても無駄はない。

とても気持ちよく、まさに「さくさく見られる」ドラマだ。

 

またいろいろな実在の事件から元ネタを集めているようで、事件内容もヴァリエーション豊富。長寿ドラマだという話なので今後どうなるかはまだわからないが、話数が多くても事件自体にはそれほどワンパターン感はない。白人男性が犯人の話が多いのは、統計的に仕方ないものと思われる。

ただし話の作り方自体は割とワンパターン。全面的なバッドエンドはほぼなく、このあたりが落としどころだと思えるほどほどのラインで終わらせてくる。

凄惨な事件を扱うだけに、何かしら救いを残すことでバランスをとっているのかもしれない。

「The Wire」などの「解決しないこと」を売りにしたドラマに慣れすぎたせいか、「クリミナルマインド」のきれいな終わり方は拍子抜けするほどだ。

そういえば列車ジャックの元教授、「The Wire」のフランク・ソボトカだった。

 

ドラマの「古さ」について

ひょっとするとこのドラマは、本国で放映された当時に見るのがいちばん面白かったのかもしれない(というかほとんどのドラマは放映当時に見るのが最適なように作られているに決まっている)。

2016年の現在見ると、いろいろと古さを感じる点がある。

 

まず何もかも説明しすぎ。

逆にいえば丁寧に作られているということで、批判するつもりはないのだが、この丁寧さがなんというか懐かしい。昔のドラマってこうだったなという感じ。

視聴者全員が一度見ただけで筋書きを理解できるようにと、とにかく説明セリフが多い。

特に2010年代以降、映画だけでなくドラマでも「一度見ただけで全員が理解できなくてもいい」というような作り手の姿勢が見られるようになった気がする(たとえば「ブレイキングバッド」のスズランについてはあちこちのサイトで意味がわからないという質問を目にしたが、あれは2011年の作だ)。

これはある意味で「不親切」であり、ある意味で視聴者の知性を信頼した作り方でもある。わたしはこの変化を好ましく思っている。自分で真相にたどり着いた方が何倍も面白く、何倍も恐ろしいからだ。

 

もう一つ気になるのはリードのキャラクター。

彼のような「天才」設定は、最近はもはやほとんど見なくなった類のものといっていいものではなかろうか。

90年代の「天才」ステレオタイプというか。

記憶力抜群で頭の回転は速いが運動神経はいまいちで、空気が読めないけどどこか憎めない弟タイプ。

S1におけるリードはチームにおける最年少でFBIにおいては新参者、つまり視聴者に感情移入させるべき視点人物

最近のドラマにおいて、天才は「彼がいかに天才かを視聴者とともに観察する」という描かれ方が多い。代表は「シャーロック」や「ハンニバル」など。

天才は客体として描かれるべきもので、主体的に感じられるようなものではないというのが昨今の流行だ。

この場合、製作者は観察に足るだけの「天才像」を作り出す必要がある。天才を天才として描写するだけの覚悟が求められるのだ。何しろ天才描写とは、創作者の想像力の限界を表すものだから。

これに慣れていると、愛すべきリードくんの描き方には違和感がある。彼は「そういう天才」ではない。「人間味」を与えられた、視聴者に近い人物である。そして視聴者は彼の成長とともにドラマにシンクロさせられることになる。

 

視聴者に近い人物としてデザインされている以上当然なのだが、製作側はこの天才を天才として描写するような覚悟はない。だからどうしても彼の天才性は不十分だ。そして不十分であることが彼の魅力になっている。

基本的にはそのつもりでドラマを見ており、リードのキャラはこれはこれで好きなのだが(リードメイン回は毎回わくわくする)、一点許せないのは彼に音読させるシーンだ。

毎分2万語を読める彼が、迅速な考察を求められる場面で音読なんて遅すぎる行為をするのはさすがにおかしい。「天才」が音読をするとしたら、その言葉を「聴覚情報」として自分に入力するためだが、リードは聴覚情報に対しては天才性を発揮しない設定のはず。

もともと説明セリフを多くすることで成り立っているドラマであり、かつ「シャーロック」のような手法が確立されていない時代とはいえ、リードの設定を殺してしまう演出はもったいない。

 

「悪趣味」であることを視聴者に突き付ける

今のところ最も面白かったのは、そのリードくんが捕まる2-14、15だ。

話の骨子は「サイコ」と同じなのですぐ解決かと思ったら、真相がわかってからが本番だった。

犯人は残虐な犯行の様子をネット配信し、その動画が大人気になる。大半の人はそれを作りものか、映画の予告か何かだと思って楽しんでいる。

それが本物の犯行現場だとわかっているFBIチームは、動画をダウンロードする人々に嫌悪感を催す。

このシーンで製作者は、視聴者に「こんなドラマを見ているお前はこいつらと同じで悪趣味だ」という自覚を促している。

視聴者は現実世界で残虐な事件が実際に起こっていることを知りながら、ここで放映されているのは作り物だからと、平気な顔で「ドラマ」を、異常犯罪を消費している。そのことに対して、S2にして初めて作り手から疑問を突き付けられた形だ。

これについては、おそらく「一度見ただけで全員が理解できなくてもいい」というつもりで入れたと思われる。というか、みんなに理解されると視聴者が離れてしまうだろうというギリギリのラインだ。こういう構造を裏返してくる表現はかなり好き。

 

 

ここで唐突に話が変わるのだが、2016年9月現在佳境に入っているアニメ「ダンガンロンパ3」には、これと同じ仕掛けが組み込まれているのではなかろうか。

「希望の象徴」だったはずの人たちが互いに殺し合う(そういえばそんな話も「クリミナルマインド」にあった)のを娯楽として楽しく消費する、そんな行為は悪趣味だと視聴者自身に突き付ける展開。

ダンガンロンパ」製作チームは、登場人物の頭を飛び越えてプレイヤーにダメージを与えてくるのが得意だったはず。「アニメ」を作った以上、それくらいのことはしてきてもおかしくないと思っている。

 

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