なぜ面白いのか

見たもの触れたものを保存しておく場所。映画、ドラマ、ゲーム、書籍の感想や考察。

上善如水「春ゆきてレトロチカ」クリア後ネタバレ感想

ここのところ長距離移動のおともに「春ゆきてレトロチカ」を遊んでいた。

遊んでいたのだが、長距離移動のおともだったのは前半だけで、後半は深夜に一気にクリアしてしまった。

いやもう本当に面白く引き込まれるストーリーだった。

物語の構成も素晴らしいし、役者さんの演技も素晴らしいし、何よりもこの作品を「実写ゲーム」という形で仕上げる意味をしっかり感じられた。

実写ゲームというジャンルはまだまだ発展途上にあると思われるが、これからも挑戦的な作品が作られていってほしいものである。

そんなわけで以下、最終章までのネタバレ感想。

クリア済みでない人はここでお帰りください!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

最終章を見逃すポンコツ

最初にことわっておくと、わたしは6章をクリアしてエンディングを見ながら「よいゲームだった、けど如水さんはなぜ自殺してしまったの??? 佳乃はあのあとどうなったの??? そこはプレイヤーの解釈に任せますってことなの??? よろしいならばまずは考察サイト巡りだ」と考え、タイトル画面に戻ったら即ゲームを終えて感想の検索をしてしまった。

わたしとしては、もうエンディングまで見たのだから何を検索しても大丈夫! と思っていたのだが、とりあえず「春ゆきてレトロチカ 如水」で検索した結果、当然ながら致命的なネタバレを踏み、悲鳴をあげて引き返すという近年稀にみる悲惨な経験をした。

わたしのような注意力散漫でせっかちなポンコツもいるので、クリア後要素(おまけ程度のものではなくむしろ終章がメインだよね???)はめちゃくちゃわかりやすく表示してくださいということを切に申し上げる(一応クリア後要素が出てないかなとメニューは見たのだが、その下にあるものに気づかなかった)。

 

 

映像による叙述トリック

ああこのゲームの仕掛けってすごいかも、と最初に気づいたのは、西毬真琴が如水だったのではないかという話が出てきたとき。

佳乃の書いた物語は、はるかの脳内でイメージしやすい人物に置き換えられた状態で映像化されている。つまり過去のストーリーはイメージ映像で、現実とは異なる。それを利用すれば、過去と現在でまったく印象の違う人物が同一人物であるという仕掛けが可能になるなと。

そのことに気づいて、1章をプレイしているときには「予算を抑えるためのスターシステムかな」と思っていたものが一気に魅力的に見えてきた。

そういうわけで「誰が誰におきかえられてるんだろう?」とわくわくしながらプレイしていたのだが、しかしながら如水の現在にも佳乃の現在にも最後まで気づかず、ころっと騙されてしまった。真相がわかったときは最高にいい気分だった。わたしは見事に騙されるのが好きである。

赤椿の正体は割とすんなりわかったかな。賢木の家が焼かれたという話があったから、火を怖がる人は賢木のもうひとりの生き残りか、または燃やした側の人だろうと思って見ていたので。「練炭が燃えていたから入れなかった」の仮説が出てきたときに論理の路が現代までつながって、あそこは気持ちよかった。わたしは自分で謎が解けるのも好きである。

 

 

如水と佳乃

5章で草粥を食べながら(プレイ中は、いや怪我してる方が粥を作るんかい! とつっこんだものだが)「夢をかなえなさい」と佳乃に語る如水の口調が完全に「親」だったので、あれこの人って……? とたしかに思ったのだけど、その後出てきた手鏡の意味(と狛犬の存在)には気づけず。

この親子について考えるほどにしんどいなあ。

佳乃は本当に如水を慕っていて、会いたいと思っていたのに、如水の方は自分から遠ざけることで娘を守ることになると思っていたわけで。佳乃の人生も孤独だったはずで、せめて如水と一緒に生きられたらもっと幸せだっただろうにと思ってしまう。戦中戦後の時代とか。

如水は、娘がどこでどんなふうに亡くなったかを知ろうとはしなかったのだろうか。天寿をまっとうできたならそれでよし、だったのかな。

佳乃も如水と再会できて一日でお別れなんて悲しすぎる。そしてこれから永遠の命が続くわけでしょ? 佳乃のその後のことを考えるとすっきりハッピーエンドとは思えない。

ただ佳乃は赤椿や如水とは違って、不老を「呪い」だとか「人柱」だとは思っていない。彼女にとって「生」とは「如水さんが守って、与えてくれたもの」だから。一日一日を愛おしんでこれからも生きていく、永遠の命をもちながらそんなことが本当に可能なのかわたしにはわからないけど、あの小説に出てきた佳乃の前向きな考え方を見ていれば、彼女にならそれができるのかも、と思わないでもない。ある意味で主人公補正的なものが、きっと佳乃にもあるのだ。

ひとまず当面は、如水や赤椿のような死んでいった人たちの弔いをしながら生きていくことになるのかな。それがわかるのが、二度目のエンディングの最後のシーン? 七つ目の灯篭はたぶん佳乃が流したものだよね。

 

わかってから見直すと、明里が如水のことを「孤高で知的」みたいな感じで描写するのが面白い。如水さん自己評価高いな。いや「佳乃の目を通して語られる如水像」がそんな感じだったからそういうふうに描写してみただけ?

 

大正時代に未婚の男女が一緒に暮らしていることを名家の家長が完全にスルーしていることが不思議でならなかったのだが、全然そういう話ではなかったんだなあ。

エンディング中に流れる如水さんのモノローグは、あのとき夫である元永に語った内容だったんだな。

 

最初に発見された白骨死体が如水か佳乃のものだったらつらいなと思っていたのだが、永山のものならまあいいか

というか永山のしたことって、如水が女性ということになるとさらにたちが悪いんだが。佳乃による描写はだいぶマイルドだったけど、あれ実際は性的暴行に及んでるよなあ(時代も時代だし)。佳乃もあのまま監禁されていたらどうなったか。

割と「悪人」のいないストーリーではあったけど、永山は徹頭徹尾だめなやつであった。

 

 

河々見はるか

もはや作中であの顔は「佳乃」と呼ばれることの方が多くなかった? 「はるかさん」と呼ばれるのを見て「誰だっけ?」となってしまった。

如水ははるかの中に佳乃を見ていたんだろうな。はるかを作家として育てあげることで、「作家になりたい」と語っていた(けれど実際には作家として大成することはできなかった)佳乃に対してできなかったことをしていた、みたいな。

 

彼女の自信満々の推理シーンには妙ないたたまれなさを感じてしまった。ひと昔前の探偵風というか。あ、令和の時代に関係者一同を集めてですます調で推理披露しちゃったりするんだ……みたいな。まあそれもレトロ趣味の範囲といえばそうなのだけど。

それも彼女の「推理」って物証に基づいたものがあまりなくて、ほとんど推論に推論を重ねているからなおさら。

普通、どんなに信用できる一次資料が手元にあったとしても、それを「全部事実」として扱うことはしないのだ。特にそれが個人の手記の場合、思い込みや勘違い、記憶のあやふやな部分を適当に補ったり、自分にとって都合の悪いことは書かなかったり嘘を書いたりということが必ず起こる。

ゲームを遊ぶときのお約束ごととして「佳乃や伊夜の手記には事実が過不足なく記載されている」という前提を一応は受け入れられるけど、現実にはそんなことはありえないし、現実ではそんな前提は受け入れられない。というか「佳乃や伊夜の手記には事実が過不足なく記載されている」という前提も別にゲームの中で説明があるわけではないので、これって100%信用していいものなの? という疑問は常につきまとう。

現代に目の前で起こった事件の方も、現場検証も物証も足りない状態の割には断定口調で推論を重ねていく。

普通は「事実」の積み重ねで推理をしていくものだと思うのだが、「事実」と確定していいラインがどこまでなのかがプレイヤーとしては常にあやふやなままなのに、はるかの推理は常に自信満々の断定口調だというところが最大の違和感だった。

赤椿だって現実的には100年の間に火を克服していてもおかしくないだろうに、絶対に火が怖いままであるという前提で話が進むんだもんな。ゲームのルールとしては受け入れられるのだけど、それを「現実世界に生きるその場の全員」が受け入れている描写には違和感がある。

事件が起こるまでのパートはすんなり見られたのに、解決編になるとどうにも入り込めなかった理由はこれか。うまいこと言語化できてすっきりした。

 

 

赤椿

面白いキャラクターだったなあ。

「殺す」と「弔う」が彼女の中では両立してしまう。そのことがプレイヤーにも理解できてしまう。

昭和の時代の如水には赤椿のそんな心理は推しはかれなかっただろうけど、結果として「殺し」、そして「弔おう」としていた彩綾が歌うのを止めることになったのも面白い。如水にとっては赤椿的な思想は許容できないということだろう。

大正時代の常盤子を演じるのが明里の役者さん(松本若菜さん)というところも面白い。松本さんは昭和時代には彩綾も演じている。はるかにとって明里は、無意識のうちに「不老」のイメージだったのだろうか。この編集さん全然ふけないな……みたいな。

 

たぶん赤椿も最初は「永遠の生」のことを「大切な人から与えられた祝福」だと思ってたんだよね。佳乃と同じように。

でも佳乃と違って、彼女の大切な人は彼女を大切に思っていなかった。

それを本当は薄々わかっていたけれど、直視できなくて、永山本人に言われた「生きろ」という言葉を都合よく解釈して生き続けた。この生は祝福なのだと信じて。

その生が、祝福などではなくただの実験台としての「人柱」だったと突きつけられる絶望よ。その絶望は、そこまでの生が長く過酷で孤独であるほど深いはず。

「知りたくなかった、知らなきゃよかった」はこっちのセリフだよ!! と言いたかったよね。だからまあ、憎しみが了永に向くのはわからなくもない。いちばん恨むべき永山はもう死んでるっていうか自分で殺したわけだし。

そういえばあのナイトクラブでの赤椿も、テーブルの上の蝋燭を消してたんだよね。あそこはもっと早く気付くべきであった。

 

なんだかね、自己を定義するのは自己だよ、と言ってあげたくなるのだけども。

自分の生の意味を他人に求めてしまうと、その他人が自分の望む言動をしなかったときに自分の生自体を否定することになりかねないでしょ。だから己が何者であるかとか、自分の生の意味は何かとか、それを他人に求めてはいけないのだということは、わたしは昔から心に決めている。それは自分の責任において決めることだ。

永遠の生とか経験したことないから軽々しく言っちゃうんだけど、トキジクを与えた永山にどういう意図があったにせよ、その生をどう定義するか、どう生きるかは常盤子自身が決められたはずなんだよ。「それはそれ、これはこれ」と分けて考えてもいい話だった。

でも何の使命も覚悟も持たない一般人が、好きな人のためだけに不老になってしまったら、自己をどう定義するかなんて冷静に考えるのは難しいのかもしれない。考える時間はたっぷりあったとはいえ。

「誰の物語にもなれなかった」という彼女の言葉がとても象徴的だ。自分の物語は自分で紡いでいけばそれでいいのに。結局は誰かに愛されたかった、のだろうな。

 

 

ガバガバ描写なのか意図的な描写なのか判別できない

今作の最大の問題点はこれ。

さっき書いたナイトクラブの蝋燭のことといい、今作はちょっとしたセリフや小道具から真相を察知できるように様々な工夫が凝らされている。それを見つけるのもひとつの楽しみなのだが、プレイ中はその描写が意図的なものなのか、それともただのガバ描写なのかが判別できない。

まあまあ発生するガバ描写のせいで、意図的な描写の意味が埋もれてしまうのが実にもったいなかった。

たとえば序章と1章はどちらも刃物での殺人だったが、どちらも返り血問題に無頓着すぎる。

特に1章は、正面に立って刀で頸動脈を切ったのに返り血を浴びていないとはこれいかに。犯人がどうやって返り血を防いだか、何か着替えや覆いを用意していたのかなど真剣に考えていたのにそりゃないよ。

偽探偵が刺されたのは死後だったから返り血はそれほど飛び散らなかったかもしれないが、やっぱりあの細工をする上で返り血が全然つかない(しかも和服だし)のは相当に運がいいと言わざるを得ない。

序盤がそんな感じだったので、このゲームはそのへんのガバ描写は許容しながらやれってことね、了解! と、自分の感度を大きく下げてプレイすることにしてしまった。

なので、

  • 緊急で命の危険性がある状況で救急車ではなく医者が単独で来る
  • ヒ素中毒の可能性があるという話だったのに医者が検査キットも呼吸器も胃洗浄の用意もせずに来る(往診先にどこまで持参できるものなのかは知らない)
  • 百歩譲って探偵が個人病院に詳しい説明をしないまま直接往診を頼んだのだとしても、すぐに119番通報すればドクターヘリを飛ばしてもらえるかもしれないのに医者がそれを提案しない

という超絶あやしいシチュエーションも、まあこれもガバ描写のひとつかな……とスルー気味であった。その場に医療コンサルタント医学生がいるのに誰も何もつっこまなかったから、やっぱりただのガバ描写だったのかもしれない。

実写でやるならもうちょっと物理法則とか、現実の社会制度とかはふまえてほしいところだし、そうでないならそのへんのルールは明示してほしい(この世界の人体に動脈はないものとする、など)。

 

 

という感じでいろいろつっこみどころはあるものの、アドベンチャーゲームとしても新本格ミステリィとしてもわたしはかなり楽しんだし、実写ゲームの今後の可能性も感じられる良作だと思った。

この話の続編は難しいかもしれないが、この形式のアドベンチャーゲームは今後も増えていってほしいところだ。

 

 

ssayu.hatenablog.com

ssayu.hatenablog.com