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混沌の梯子を自ら上る者たち「ゴーストオブツシマ」感想・考察

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年末年始で一気に「ゴーストオブツシマ」をクリアした!

直前にやった「サイバーパンク2077」と同じオープンワールドで似たつくりの部分も多く、いろいろと比較しながら遊ぶことになった。

ツシマはとにかくゲームの導入が親切丁寧チュートリアル部分がシナリオときちんとリンクしていて、プレイヤーの上達とシナリオの展開までがリンクしているつくりの巧さは、これまでやってきたどんなゲームと比べても卓越していた。

アクション下手なわたしは例によって難易度の心配をしていたのだが、その点も割と大丈夫だった。ステルスプレイに関しては、敵の聴覚が大したことないため、すぐ近くでドボーンと水に飛び込もうが気にされることがない。そこまで気を張らずに遊べるのは自分としてはかなりプラス。もしステルスに失敗しても直接対峙でゴリ押しもできるし、死んでもリスポーンが早いのでストレスがない。

プレイフィールとしては、アサクリが近いのかと思っていたらむしろホットラインマイアミが近い気がした。与えられたマップを見て攻略ルートを自分で考え、敵を倒しつつそれによる影響で変化した敵の配置などに対応していくあのパズルゲームみたいな感じ。AIの賢さとかリスポーンの速さとかも(さすがにマイアミほど速くはないが)。

敵に対してとれる方法も豊富。最初は型の切り替えに慣れなかったが、覚えてしまうと面白かった。チャンバラ中に暗具を使えるのも楽しい。

わたしは最初は難易度「易しい」で始めたが、この感じなら……と、途中で「普通」に変えたくらいだ。

 

オープンワールドなのにミニマップがないというのも、最初は戸惑ったがあの風システムはとてもよかった。神風が吹いて元寇を追い返したという伝説とも結びついているし。そのおかげで移動中、画面にUIが入り込まず、美しい景色を堪能できた。

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フォトモードではなく普通のゲーム画面がこれだからね

サイバーパンク」のような世界観ならミニマップもその他UIも、常時画面に表示されているのが自然なのだが、中世ファンタジー的世界観のゲームならこのシステムが主流になってもいいくらいだ。

わたしは風に導かれるままにうろうろして、マップ上のオブジェクトは全部見て回れたし、文書も全部見つけられた。親切~!

オープンワールドに不慣れな人、アクションゲームに不慣れな人でもこれはクリアまでいけると思う。そこらじゅうにグロい死体が散らばっている&クエストのほとんどがバッドエンドという点を除けば万人に勧められるゲームである。

うん……もしかしたらそこは割と大きなハードルかもしれないな。鬱展開も好物なわたしでも「もう立ち上がれない……」と思うポイントがあったくらいだし。

 

とはいえ、全体としてはどこを切り取っても「極度の日本オタクが全力で愛とリスペクトを注いで作ったゲーム」としてとてもよくできていた。敵役になった蒙古へのフォローもちゃんとあって、そこも安心した。このゲームで日本文化やモンゴル文化に興味をもつ人はきっと増えるだろうし、それは素敵なことだと思う。

時代劇のお約束的な見せ方も心得ていて、自分で操作してその演出の中で立ち回れるのは嬉しい限り。

ただやっぱりこれは「洋ドラ」だな、とは感じた。日本の鎌倉時代を舞台とした、洋ドラ。わたしは吹替で遊んだのだが、むしろ英語で遊んだ方がストーリーは自然に感じられたかもしれない。

ローカライズものすごく頑張っているのもよくわかるが、この作品に感じた違和感は日本人としてのアイデンティティの根幹にかかわることだと思うので、あえて言語化してみる。

まずキャラクターの表情が、時代劇にしては(現代日本人としてみても)豊かすぎる。日本人はこういう表情しないよな、というのがときどき違和感として立ち上がってくる(その一方で仁さんの抑えた演技は時代劇っぽい気がした)。いやそんな違和感を抱かせるほどフェイシャルモーションが頑張ってるということでもあるんだけど。

それから会話の展開が全体的に洋ドラ。日本人は目上の人相手にあんなに皮肉の応酬はできない。キャラクターが心情を言葉でペラペラしゃべりすぎなところもやや違和感。日本人って大事なことほど言わないんだよな。クソ面倒だとは思うけど。これが現代劇ならまだわかるのだが。

で、その最たるものが「誉れ」。まずこの作品における「誉れ」は英語の honor の訳語であって、日本語で honor に完全に一致する概念はない。だから英語の honor と日本人の考える「誉れ」に微妙に齟齬が生じる。いっそ「誉れ」という言葉を使わずにすべてのセリフを翻訳できたらよかったのかもしれないが、「誉れ」をめぐる葛藤と対立がこの話の主軸なので、「誉れ」という言葉を使わないとものすごくわかりにくい話になってしまう。

武士は確かに誉れを大事にするが、大事にするがゆえにそれを口にすることはほとんどない……と思うのだけど、どうですか時代劇に詳しいひと。わたしは大して時代劇をたくさん見ているわけではないからあまり大きなことは言えないが、こんなに「誉れ」を口にする人って時代劇で見たことないよ。子供時代の仁さんが伯父上に「処刑」のやり方を教わる(誉れを胸に、相手を見据えて切る)シーンとか、「ゲームオブスローンズ」の1-1で見たやつだよ。

 

わたしの考える武士は、戦い方よりも「体面」「面子」を気にする生き物だ。ツシマの時代より前だと、源義経は夜襲をかけるだの、山や民家に火をつけて敵に多勢だと思わせるだの、舟の漕ぎ手(非戦闘員)を攻撃するだの、当時の戦の作法を無視しまくって勝ったものだが、彼がその戦い方に「誉れ」がないと悩んだり周囲から非難されたりという話は聞かない。「勝てればおっけー」な価値観は当時の武士もある程度共有していたのではないだろうか。

義経が頼朝から敵視された理由はそんなことではなく、(原因はひとつではなく複数あるとされるが、主には)頼朝の許可なく朝廷から勝手に官位を授かったこと、だったはず。要するに「体面」の問題(少なくとも表向きには)。

さらに後の戦国時代になれば、奇襲・奇策のエピソードはさらに増える。そして大抵は「勝てればおっけー」な感じでその勝利は周囲に認められている。

そんなわけでわたしは武士の「戦い方」というものにそんなにクリーンなイメージがなく、この「誉れ」連呼シナリオには違和感があったのだった。

おお、プレイ中はなんだかもやもやする感じにとどまっていたが、こうして文にしてみるとすっきりしたな。やっぱ言語化は大事。

 

ということで、わたしは途中からこれを「洋ドラ」「ファンタジー世界のツシマ(なんか上県になったらすっかり北国だったし!)」と割り切って楽しんでいたわけだが、ドラマとしては本当に面白かったしよくできていた。

以下、エンディングまわりを中心にシナリオ考察とか。

ここから全面ネタバレ注意!

 

 

 

 

 

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「親殺し」の物語

これが「父と子」の物語であり、「誉れ」をめぐる葛藤と対立の物語だということがわかった時点で、これは「親殺し」譚、もしくはその亜種だと見当がついた。だから最後の戦いがあのような形になったのは納得感があった。本当にオイディプス王だよ仁さんは。

わたしはハーン戦でほとんど使いきった気力を回復させないまま乗り込んでしまったせいで何度も死にまくり、ボイスチャットで「詰んだかも、どうしようどうしよう」と叫んだものである。しかも自分の声が蒙古弓兵のアレに聞こえてひとり受けてしまった。今後「どうしよう」と口にするたびに蒙古の顔がよぎることだろう。何度も死んでいたらシステムから「難易度を『易しい』にしますか」という申し出があり、そのおかげでクリアできた。

 

ちなみにわたしは最後の選択で殺す方を選んだ。この物語をきちんと閉じるにはそれがベストだと思ったので。この後のツシマ復興のことを考えれば志村家を残しておいた方がスムーズにいきそうなのだが、そんなことより物語の納得感の方を優先するプレイヤーであった。

このときの殺し方が、子供の頃に伯父上に教わったとおりでまた泣けるんだ。

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開いた物語がきちんと閉じられていてとてもきれいだった。

たぶんこのときやっと仁さんは、実の父親の死のことも乗り越えられたのだろう。父親の死を物陰から見ていることしかできなかった少年はもういない(これは「やります」と剣を抜いた時点で)。自らの弱さを受け入れ、その上でできることを探し、彼はここまで歩んできた。父たるものの庇護下から離れ、少年は大人になる。これはある側面から見ればそういう物語だ。

 

ところで最後の選択肢についてだが、left(そのままにしておいて去った)な選択肢が右側、left ではない選択肢が左側だったのがちょっと面白い。あれは意図的な配置だったのだろうか。もしそうなら、開発的には去る方の選択が right(正しい)のつもりだったということか?

 

志村殿の思想

志村城攻城戦での伯父上の言動を仁さん視点で見ていると「こんな無能に指揮をとらせていては民を守れぬ」と決意を固めたくなるのもわかる。

しかしストーリーが進むと、伯父上には伯父上なりの考えがあったことがわかる。

現代人目線から語ると、それは要するに戦後の秩序維持・回復を見通した行動ということである。本土と連携がとれれば、今いる蒙古を押し返せる見込みは十分にある。そしてその後は再び武家による秩序を保っていく必要がある。そのためには武士に秩序を維持する力があることを民に示し続けなければならない。

こう考えると、「誉れ」のない戦い方をする仁さん・上からの命令に従わない仁さんは「秩序」を乱す者でしかない。

 

しかしこれまでツシマの秩序がどれほど守られ保たれていたかについては疑問の余地がある。それを示すのが大量にいる野盗と、竜三を初めとした菅笠衆の存在だ。「武士と民」のどちらにも属さない、しかし暴力は備えた、社会秩序の外側の人たち。

竜三と仁さんは幼馴染で、もともと仲がよかったらしい。身分違いながら仲良くやっていたふたりが、その関係に亀裂を入れてしまったのが刀競べの一件だと思われる。竜三にとっては「うまくいけば士官が決まる、人生を懸けた大一番」。一方の仁さんにとってはただの一勝負(とはいえ手を抜くようなことはしない)。

仁さんが刀競べの件を大して気にしていない様子なのが(竜三は刀競べを最後に仁さんと会っていないのに、仁さんは「最後に会ったのはいつだっけ?」と尋ねているのでそれがきっかけで離れられたのだと気づいていない)、武士以外の者に対する武士の姿勢を端的に表している。秩序を維持する側の者たちは、秩序の外にいる者たちに対して非常に無自覚に残酷だ。

自らも秩序の外に出てしまった冥人仁さんは、いつか竜三目線でこの世界を見られるようになるのだろうか。

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エンディングで伯父上は、民が武士に逆らうことを覚えてしまったと言及している。秩序崩壊の萌芽を、彼はすでに察知しているのだろう。

実際のところ鎌倉幕府が滅んだ原因のひとつは元寇である。元寇は防衛戦だったため、戦功をあげた武士に褒賞を与えられず、その不満が募り……とよく語られるやつだ。大雑把に言えば「下の者が上の者に逆らう」ことによって滅んだことになる。

ツシマ世界は史実とはだいぶ異なるファンタジーだが、伯父上の「民が武士に逆らう……」発言は、メタ視点で見ればその後の鎌倉幕府の崩壊を示唆するものだと思われる。

仁さんは「今、目の前にいる人たちを現状の戦力で守りたい」と考えて行動し、志村殿は「戦後のことまで考えて島の秩序を維持したい」と考えて行動していたわけだ。

さらに現代的な視点から見ると、志村殿は旧体制の象徴であり、仁さんは自由を希求する革命家(どちらかというと革命家の役はゆなだが)である。

 

コトゥン・ハーンの思想

登場時、その語学力の高さでわたしの度肝を抜いた大ボス。

いやテキストも視聴覚教材もない時代によくぞあそこまで。歴史文化的調査もがっつり行っていたようだし、序盤からわたしの評価はうなぎのぼりであった。

日本人にも彼に心酔する者はいて、そのことは各地に置かれた「ハーンとの対話」というテキストからわかる。あれが読みものとしてとても面白く、集めてまわるのが楽しかった。

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中でも印象的だったのがこれ。

あのシナリオはコトゥンの筋書き通りだったようだ。

コトゥンとしては、志村殿を自分の配下に降らせたい。しかし頑張ってはみたものの志村殿は頑固。仁さんが金田城を取り返しに来たとき、コトゥンは彼を一度手放すことに決めたのではないだろうか。竜三みたいな(コトゥンから見れば)ぽっと出の浪人にダンジョンボス役を任せてちゃっちゃと退散してしまったのはそういう理由からではないかと。

あの時点ですでに仁さんは「誉れ」のない戦い方をしており、コトゥンはその情報で志村殿を揺さぶろうとしていた。それが「効く」ことをコトゥンはわかっていたし、実際にわずかながら手ごたえを感じていたに違いない。そして「自分たちにとって唯一の脅威である仁さん」が志村殿に潰されればそれはそれでよし、仁さんが今の路線で大活躍すれば必ず志村殿と揉めると計算したのだろう。それだけコトゥンは志村殿のキャラクターを理解していた。

 

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この考え自体は、孫氏兵法にすでに書かれていることだ。

わたしにとっては別のGoT(ゲームオブスローンズ)でおなじみの考え方でもある。Family against family, sister against sister である(そういえば sister against sister なエピソードもツシマにあったな)。

「野心ある者や名誉を欲する者の心に付け込むことは赤子の手をひねるより容易い」か。野心ある者=竜三、名誉を欲する者=志村殿かな? で、心に付け込むのが難しそうな仁さんのことは「ご用心のしすぎ」と言われるほどに警戒していた、と。それで対冥人のためにとった対策が仲間割れ。

間違いなく、志村軍の中にはコトゥンのスパイがたくさんいるはず。情報は割と筒抜けだったと思われる。

考えてみると、コトゥンの戦法はことごとく「秩序」の反対、「混沌」である。捕えた民に対しても残虐に処刑したかと思えば、食事を与えて返したりと民から見れば「何なんだよあいつ!」状態。秩序社会の外に出てしまった冥人の敵として、確かに釣り合っている。どちらも「恐怖」を最大の武器にした点も共通している(冥人モードの禍々しさよ……)。結局ふたりともこの混沌という梯子を上りきることはできなかったが。

 

「侵略者から国を守り、ついでに旧体制も破壊して自由を勝ち取りました! やったー!」みたいな終わり方でないからこそ後を引く本作。

残されたキャラクターたちも皆、自分のいちばん大切なものを失い、孤独な余生を送らなければならない。大半のサブキャラクターまでが闇堕ちといってもいい状態になるのはなかなか衝撃だった(たぶん未来にいちばん希望があるのは巴である)。

「誉れが何になる」と自ら秩序の外に出てしまった仁さんは、復興し秩序を取り戻していくツシマの中でどのように生きていくのだろうか。穏やかに生きられる日はくるのだろうか。物語がここで終わるゆえに、その後はプレイヤーがそれぞれに想像するしかない。

もしそんな日がくるとすれば結局、日々のいとなみ(=秩序)を繰り返すことでしか到達できない。死者を弔い、焼け落ちた建物を直し、畑を耕し、そうして「日常」を淡々と続けること。「我らの庭を耕そう」である。

まあその先に「平和」はないことを我々は知っているので(鎌倉体制の衰退と滅亡的な意味で)、心を持っていく場所がないんだけどな! うっうっうっ……

 

 

そういえばアサクリ3も親子で思想対立する話だったな……。

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