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「ファイナルファンタジー16」クリア後エンディング解釈

FF16、クリアしたよーー!!!

あーーー終わってしまった……寂しいな……。

そしてこれは呑み込んで消化するのに少し時間がかかりそう……。

自分はアクションが得意でないので、ラスボス戦があんまり長大で厳しすぎる戦いでないといいなあと思っていたのだが、やってみるとファンサービス豊富なイベントバトルという感じで楽しかった!(わたしはストーリーフォーカスモードでオートスローをつけてやっている)

音楽とバトルが見事にかみあう謎技術もあって盛り上がった!

 

その先のエンディングは、いろいろな解釈がありえそうなものだった。

現時点の自分の中ではこういうことかなと思う解釈について語ってみることにする。

まだ1周目をクリアした直後なので見落としとかもあるかもしれないけど、現時点での解釈を残しておくことにも意味があると思うので。

当然ながらエンディングまで全部のネタバレ注意!!

 

 

 

 

 

 

 

 

エンディング後の生存者問題

あの流れなら全員生存もありえるんじゃないかなと、わたしは期待していた。

大団円が見たかった。あれだけの苦難の先に、平和な日常を過ごす彼らが見たかった。

でも同時に、大団円を迎えるには、彼らはあまりにも人を殺しすぎているとも思った。間接的に殺した人まで含めれば、ものすごい人数になるだろう。

たとえば魔法がなくなったことによって、今までなら救えた命の何割かは救えずに終わっただろう。これからタルヤたちが魔法に頼らない医療を広めるのだろうけれど、それが間に合わずに亡くなる人は大勢いるはず。

食糧保存の方法も失われたので、大量の廃棄食品が出ただろうし、それによって一時的に食糧供給が追い付かず飢える人が出るだろうし、当分は慢性的な食糧不足と飢餓が続くだろう。

クライヴたちはそういう結果もわかった上で、それでもマザークリスタルの破壊という「大罪」をなすことを選んだ。多くの無辜の民にとって「シド」はまぎれもなく重要なインフラ拠点を破壊するテロリストだ。

たとえば現代社会に発電所を破壊してまわるテロリストが現れたとして、その結果世界中で冷蔵庫や冷暖房や医療機器、通信機器などが永久に、とまではいかなくても数年間まともに使えなくなり、破壊活動による犠牲者も出ていたとしたら、「それによって環境に優しい社会になりました!」と言われても納得できないし、そんなテロリストがその後も無事牧歌的な生活を営んでいたら、少なくとも自分は反感を抱く。

だからこう、どのへんを落としどころにするのかなあとは思っていたんだ。

 

あのエンディングをどう解釈するのかについては、何通りかに分けられる。

①クライヴもジョシュアも生存

②クライヴ生存、ジョシュア死亡

③クライヴ死亡、ジョシュア生存

④クライヴもジョシュアも死亡

こんな感じかな。

(あえて賛否両論出るように作られたのが洋ドラっぽいなーと自分は思っている)

なおディオンくんは死んでいるものとする。あれだけ満足してきれいに終わったなら、もうそれでいいかなって。せっかくとってきた紫の飛竜草、受け取ってほしかったけどね。

今のところ、自分の中では③かなと思っている。

それぞれの可能性について検討してみよう。

 

①クライヴもジョシュアも生存

これはこれで普通にありえるエンディングだと思う。

クライヴはアルテマを食らい、創世の間のアレ(アレ)を使ってこの世界の「理」を新たに紡ぐことができるようになっていた。

アレ

アレにはマザークリスタルが吸い上げてきたエーテル「蘇生魔法レイズ」を使えるほどたまっていた(そういえばアルテマが何か魔法を使おうとしてるっていう話だったな~)。

先にフェニックスの魔法でジョシュアの肉体を修復し、アルテマの力で蘇生魔法を使って蘇らせた、というところまではやってるんじゃないかなと読み取った。

その後クライヴが海岸に流れ着いたのを、生きている間にジルが発見できたなら大団円だ。

その場合、クライヴはハルポクラテスに言われたように剣をペンに持ち替えて、ここまでの冒険を書き綴るのではないか。

しかしクライヴ・ロズフィールドという名前は「大罪人」として知れ渡っている(たぶん。いや知れ渡ってるのは「シド」の名の方か……?)。そのため記録を公表する際はジョシュアの名を借りることにした。

まあまあ筋は通るような気がする。

 

 

②クライヴ生存、ジョシュア死亡

自分の中でこれはちょっと弱い。

何のためにジョシュアの肉体を修復するカットシーンを入れた? という話になっちゃうので。強いて言うなら「遺体をきれいな状態に」というところだろうか(わたしも最初はそう思った)。

でもそれだけが目的ならフェニックスを食った時点でやってると思うんだよな。実際にはアルテマの力を食ってから修復してるので、やっぱり蘇生目的なのではと思ってしまう。

②の場合、ジョシュア名義で本を出したのはクライヴで、ジョシュアの名前を世に残すために名前を借りたとかかな。

 

 

③クライヴ死亡、ジョシュア生存

今のわたしはこの解釈である。

クライヴが生存してるなら、ジルとトルガルが泣くシーンで終わる必要はないと思って。

エッダの出産はアルテマ戦の直後ではなく、たぶん数日から数週間後なんだよね。

もしアルテマ戦の直後なら、もっとみんなが湖の淵沿いに並んでオリジンの方を眺めて「どうなった?」ってなってたり、「落ちてきた!」って騒いでたりしてるはず。あれだけちゃんと隠れ家から見える位置にあったんだから、みんな自分の仕事の合間にずっと見ていたはず。

その描写が全然ない(ジルもトルガルも、オリジンがなくなり、晴れて星と月が見えるようになった空に驚く様子がない)ということは、オリジンは墜ちたがクライヴは帰ってこない状態が何日も続いたか、あるいはすでに死体が発見されているということだろうと。オリジンが堕ちてクライヴが帰ってこないなら、ジルは真っ先に探しに行きそうだし。それが隠れ家にいるってことは、結局かなりの日数がたったか、死体が発見されたかのどちらかということに。

「月を見ていた」の歌詞も、ストレートに読めば別れの歌だ。サブクエストで語られたエピソードを含む、ジルからクライヴへの愛と感謝と、そして別れをうたった歌だ。

米津玄師のインタビューを読むと、楽曲作成の前に全体のシナリオをもらっていて、FF16の物語のために音楽をつくったということだから、これは歌詞をシナリオにあてはめてそのまま受け取っていいように思う。

クライヴはアルテマの力で蘇生魔法を使い、世界の理を書きかえて、力を使い果たして亡くなった。

ちなみに本当に蘇生魔法が効いたのだとしたら、それはジョシュアが「フェニックスのドミナントだったから」という要因もあったのではないか。召喚獣が食われても、ドミナントには召喚獣の力が多少は残るようだったから。だからディオンくんや地上で亡くなった人までは蘇生できなかったのではないかと思っている。

で、この場合は本を書いたのはジョシュア本人。

ハルポクラテスからペンの話を聞き、「語り部」になってほしいという話も聞き、兄の生きた証を残すべく「物語」を書いた。

見た映像からいちばん希望的な解釈するならこうかな、と。

だってクライヴはフェニックスのナイトなんだよ。不死鳥の盾なんだよ……。

 

 

④クライヴもジョシュアも死亡

最初はもうこれ以外考えられなくて寝込みルートまっしぐらだったのよね……。いや③解釈でも寝込むんだけどね。

ジョシュア・ロズフィールドという名の著者も、わたしの知るジョシュアとは限らないと思って。ロザリアにはロズフィールド姓の名家がおじさんをはじめとして、ほかにもいるようだし(全員がロズフィールド姓とは限らないが)。西洋だと親子や親戚間で名前をもらうなんてよくあることだし。

世界の理が変わってから数代たった後の「ジョシュア・ロズフィールド」が、先祖から聞いた話をもとに、多少の脚色を加えて「ファイナルファンタジー」を執筆したのではないかというのが最初の解釈だった。

もしくはヨーテとか、不死鳥教団の誰かがジョシュアの名前を借りて執筆したとか。彼らは詳しく記録を残していたようなのでそれもありえそうな気がする。

 

という感じで各可能性を検討してみたが、わたしの中では「ジョシュアにレイズが効いてましたってことにします!!!!!」で結論を出した。クソッここがエオルゼアならわたしが迅速&素詠唱レイズを全員にばらまくのに!!!!!

 

 

バハムート、きれいだったな…

 

アルテマの自我について

アルテマは「ひとり」ではなく複数いた。

そのうちの「ひとり」がジョシュアの中に封じられていた。

彼らは複数いたが、見た目は大差なく、「一にして全」だという。

そんな存在に「自我」があると言えるだろうか??

自我とは自己と他者が異なる存在であるという自認から生まれるものだ。だから自己と他者が未分化な幼い人間は「自我が未確立」なんて言われる。

「一にして全」って、自己と他者がまったく区別されてないってことでは? そんな存在に自我がどうこうとか言われたくないんだが???

まあ単純に、わたしの定義する「自我」とアルテマの定義する「自我」が別物なんだろう、たぶん。

おそらくアルテマの言う「自我」とは「何かを自発的に行おうとする意思」くらいの意味ではないだろうか。それならアルテマにもあるように見える。

アルテマ「蘇生魔法によって同胞を蘇らせたい」と言いだしたときは、お? アシエンか? と思ったが、話を聞いてみるとアシエンとも全然違う。アシエンは同胞をちゃんと自己とは別の人格を持った存在として認識してたもんな。その上で「その人がその人だからこそ価値があり、再会したい」という感情が見えたもんな。「一にして全」とは全然違う。

一方の人間は、思想も立場も異なる者同士が対立しまくるし、殺し合うし、悪意の発露がすごいのだけど、しかしながらそれは結局自己と他者が異なる存在であると認めているがゆえのことである(現実には自己と他者の境界線が引けないまま大人になって、他人が自分の思い通りにならないことで怒る人もいるが、作中にはそういうタイプはいないのでは。強いて言うならアナベラはもしかしたらそういうタイプに近かったのかも)。

また相手を異なる存在と認めるからこそ、「手を取り合う」とか「ともに生きる」ということが可能になるし、(本来は相いれないはずの)異なる存在同士が手を取り合うからこそ、その行為に意味や価値を見出すことができる。

 

ただクライヴのこのへんの指摘を見るに、アルテマ人類という「自分とは異なる存在」を見て、初めて(我々が言う意味での)自我が芽生えたんじゃないかな。

「一にして全」でしかない価値観で生きてきたアルテマが、初めて「私と彼ら」という形で存在を区別したのが人間だった。

最初はまさに「自己と他者の境界線が引けないまま」「他人が自分の思い通りにならないことで」怒っていたのではないか。

人間とは自分の生みだしたただの肉塊でしかない、というのがアルテマの当初の考えだ。自分の生みだしたものを自分のものだと考える思考は、現代社会でも見られる。まさに子供を自分のものだと考える親のメタファーである。

それが自分の思い通りにならないものだから、怒る。それでもブチ切れてみせれば、相手が思い通りに動くと思っている。

だがそれもうまくいかない。

アルテマ」と「クライヴ」は異なる存在だからだ。

結局はこのふたりも「自我と自我の対決」だった。

バルナバスは最後に「自我と自我の対決」であることを無意識のうちに認めて、だからこそクライヴのことを「ミュトス」ではなく「クライヴ・ロズフィールド」と呼んで戦いを挑んだ(という話を前回の記事で熱弁した)。

アルテマはどうかなと思っていたが、さすがにアルテマはそうならなかった。でもまあ、最後はアルテマも「自我と自我の対決」だと薄々は感じていたのではないかな。だからこそ必死で否定しているようにわたしには見えた。

 

最後のパンチはンフって笑っちゃった。クソデカ999999もシリーズファンを笑わせにきてる。第三開発事業部、パンチ締めが好きすぎない?

まあわたしはこのパンチをアナベラにぶちかましたかったんだがな!!!(すぐ台無し感想にしてしまう)

 

まだまだいろいろ語りたい、考えたいことはあるが、今日はこのへんで!!!

最後に、エンディングまで一気に駆け抜けてすごく楽しかったしこの世界にどっぷり浸かることができてよかったよ!!!

作品にかかわったみなさん、本当にありがとう!!!!

 

 

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